とんでもねえ奴がいた…/白拍子静御前の逸話

挿入画像 知的生き方
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はじめに

歴史に名を残す人は、それなりの逸話を持っています。

TBS系列で、毎回各界の、今が旬の有名人を取り上げる「情熱大陸」というドキュメント番組がありますね。

観ていると、その有名人には必ずと言っていいほど、視聴者を圧倒させるような逸話があるものです。

そのようなチャレンジングな人だからこそ、その道の成功者にのし上がることができるのだろうと思います。

常々、生徒に言うのですが、歴史に名を刻みたいと考えているのであれば、また何かの道の到達者になりたいと考えているのであれば、それ相応の冒険が必要になります。

「情熱大陸」に取り上げられる人物のように、30分番組を成立させられるだけの挑戦的な活動・業績・逸話というものを、これから獲得していきなさい、そのようなことをよく生徒に伝えるのです。

いずれ社会の第一線で活躍したいと考えている方、多くの人のリーダーになって世の中を変革したいと考えている方、小さくまとまった生き方をしていませんか。

本日からシリーズで、歴史上の人物のアッと思わせるような逸話を紹介しますので、ぜひこれからの人生のヒントとしてみてください。

Life is immense‼

 

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義経からの寵愛

静御前しずかごぜんと言えば、1192年イイクニ作ろう鎌倉幕府の征夷大将軍せいいたいしょうぐん源頼朝みなもとのよりともの弟、源義経みなもとのよしつね愛妾あいしょうです。

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白拍子・静御前

愛妾というと、なんだか今だと単なる愛人のような響きですが、中世や近世では意味合いは違ってきます。

まだ身分制がある世の中では、いかに相思相愛そうしそうあい間柄あいだがらであっても簡単に結婚することはできません。

また、当時の結婚は個人対個人ではなく、家対家というのが原則でしたので、ほとんどの場合、結婚相手は自分の思い通りにはならないのです。

そのため、女性が男性に比して家格かかくや身分が低く、おおやけに結婚することが出来ない場合は、「めかけ」という身分に甘んじて愛する人に寄り添うしかないのです。

そのため、現在のように財を成した資本家が女性を囲うという愛妾の関係性とは、明らかに性質を異にするのです。

静御前の場合は、義経とは相思相愛の間柄でしたが、その家格の違いから、愛妾にならざるを得なかったパターンです。

なんせ義経は有力な四姓しせい源平藤橘げんぺいとうきつ」の一つ、源氏の棟梁とうりょう(本流)の男児でしたが、一方静御前は白拍子しらびょうし(=歌舞かぶを行う芸妓げいぎ)です。

身分的に釣り合うはずもありませんでした。

にもかかわらず、義経は平家追討の戦の最中さなかも、この静御前を帯同させている様子が『義経記ぎけいき』には見えるのです。

真偽しんぎのほどは分かりませんが、それだけ、当時の人から見てもこの二人は相思相愛だったのでしょう。

 

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義経の凋落

1185年4月、源義経はだんうらの戦いで平家を滅ぼすと、京都平安京に戻って鎌倉で指揮を執る兄頼朝からの沙汰を待ちます。

しかし、兄弟の仲は最悪の状況でした。

一体何があったのでしょうか。

時はさかのぼり、1184年1月、義経は兄の命令を受けて、平安京で傍若無人ぼうじゃくぶじんな振る舞いを繰り返す同族の源義仲みなもとのよしなかを追討します。

その功により、義経は後白河法皇ごしらかわほうおうから検非違使けびいし判官ほうがんの位を拝受します。

簡単に言えば、都の治安維持を担う警察のような役割です。

律令制りつりょうせいの官職は四等級あり、上から「長官かみ」「次官すけ」「判官じょう」「主典さかん」とあり、つまり義経は検非違使の三等級目の官職を拝命したことになります。

これは、とても名誉なことで、だからこそ世の人は義経を「九郎判官くろうほうがん」(九郎=源氏の九男)と呼んだり、「判官贔屓ほうがんびいき」(人々が弱い者や不遇の者(=義経)をひいき目に同情すること)と言ったりして、「判官」を「義経」の代名詞としたのです。

しかし、兄頼朝はこのことを面白く思っていません。

そればかりか、頼朝は義経をうとんじるようになっていました

なぜか。

それにはいくつか理由があります。

 

①源氏の棟梁である兄の許しも得ずに、朝廷から官職を受け取ったから。

➩武家の世の中を築きたいと考えていたのに、義経が朝廷から官職を拝命したことに憤慨ふんがいした。

②平家追討において、義経が活躍しすぎた。

➩頼朝は鎌倉で指揮を執るのみであったが、いちたにの戦い、屋島やしまの戦い、壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼし、戦功を挙げたのは義経であった。

③頼朝の腹心である梶原景時かじわらかげときが義経についての讒言ざんげん(=相手をおとしめるような告げ口)を頼朝にしたから。

➩屋島の戦い以前に、義経と景時は作戦上の食い違いから対立していた。

 

ちなみに、頼朝と義経は異母兄弟で、頼朝の母由良御前ゆらごぜんは早くに亡くなり、その後義経の母である後妻の常盤御前ときわごぜんが正妻格となった可能性があります。

そのため、義経の方が家督かとくを継ぐべき嫡流ちゃくりゅうとする見方もできるわけで、その点に関して頼朝は恐れを抱いていた部分もあったのかもしれません。

これらのことが重なって、頼朝は義経に対する疑心暗鬼ぎしんあんきを深めていきます。

義経は和解を求めるために、江ノ電の駅名にもある鎌倉南西部の腰越こしごえまで行きますが、頼朝は会おうとしません。

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鎌倉駅までは8駅先、時間にすると20分の距離です。

結果として、義経は兄頼朝から追われることになります。

義経は逃避行とうひこうの末に奈良に向かい、吉野山よしのやまに逃げ入ろうとします。

ただし、この吉野山(大峰山おおみねさんの一部)は女人禁制にょにんきんせい

しかも、義経が逃避行に女を伴っていることに対して、家臣の武蔵坊弁慶むさしぼうべんけいやその他の侍たちも内心はよく思っていません。

そのため、義経は泣く泣く静御前を平安京に帰す決断をするのです。

 

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永遠の別れ

静御前は泣き崩れながら懇願こんがんします。

 

あなた様は私を四国の波の上(=屋島の戦い)までもお連れになりました。

なのに、なぜ今になって私を都に帰すとおっしゃるのですか。

私のお腹の中にはあなたのおが宿っていて、このことは源氏の追手おってにも、平家の残党にも伝わっています。

もしその者たちに見つかったら、私はきっととんでもない目にわされるでしょう。

だから、義経様、一思いに私のことを殺してください。

 

この静の訴えには、恐らく次のようなことが加味されているのだと思います。

1159年、義経の父源義朝は、平治へいじの乱により平清盛に敗れて殺されます。

義経の母常盤御前は、まだ乳飲ちのみ子の義経を連れて清盛に投降します。

そして、なんと常盤御前は清盛の愛妾となるのです。

もちろん、常盤御前が進んで愛妾になったわけではないということはお分かりだと思います。

愛する我が子、義経の命を守るために、清盛に身をゆだねたのです。

この出来事が脳裏をよぎって、静御前は「万が一自分が源氏の武士に捕まれば、自分も常盤御前と同じ目に遭うのではないか」ということを、暗に義経に訴えていたのだと思います。

泣いて取りすがる静御前に対して、義経は次のように説得します。

 

愛情が尽きてお前を都に帰すわけではない。

いまとなってはどうしようもないことなのだ。

お前の母磯野禅師いそのぜんじのいる京都に帰り、来年の春を待っていてくれ。

来年の春になっても私の逃避行がうまくいかなければ、お互いに出家をして念仏を唱えよう。

そうすれば、この現世か、はたまた来世では必ず二人は添い遂げることが出来るだろう。

だからどうか、どうか都に帰ってほしい。

 

義経は自分の使っていた鬢鏡びんかがみと枕を静に手渡し、これを自分だと思ってくれと諭します。

静は和歌で応じます。

 

見るとても うれしくもなし 増鏡ますかがみ 恋しき人の 影をめねば

 

通釈

この鏡を覗いてみてもうれしくございません。この鏡には、愛する人の姿が映るわけではありませんから。

 

義経の説得に応じ、義経の従者とともに都に帰る途中、静御前は源氏方の武士たちに捕らえられ、鎌倉の頼朝のもとに送還されます。

これが、二人の永遠の別れになったのです。

 

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今日の逸話「悲痛の舞、静御前の豪胆」

鎌倉に送致された静御前は、鎌倉の繁栄を祝う祭事に招かれます。

有名な白拍子であった静御前に、鶴岡八幡宮つるがおかはちまんぐう舞殿まいどので歌舞を披露するよう頼朝から命令が下るのです。

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鶴岡八幡宮・舞殿

頼朝やその妻北条政子、政子の父北条時政ほうじょうときまさ、梶原景時など、並み居る鎌倉の重鎮じゅうちんたちが眼光がんこうするどく静御前の演舞を観ています。

その時、静御前は次の二首の和歌とともに、舞を披露するのです。

 

一首目

吉野山 峰の白雪しらゆき 踏み分けて りにし人の あとぞ恋しき

 

通釈

理不尽りふじんに兄から追われ、無念の思いを抱えながら、吉野山に降り積もる白雪の中を分けり分け入り、私の前から去って行ったあの方の後ろ姿が、今でも恋しい。

 

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鎌倉の重鎮たちの顔が青ざめます。

不敬ふけいだ」と声をあげる者、頼朝と政子の顔をうかがう者、一同は騒然とします。

静御前は続けます。

 

二首目

しづやしづ しづのをだまき 繰り返し むかしを今に なすよしもがな

 

通釈

静よ静よと、まるでおだまきに糸を巻くように、あの方は繰り返し繰り返し私の名前を呼んで下さった、そんな昔を今にするすべが欲しい。

 

静の顔には恐怖もなく、怒りもなく、ただただ義経に対する思慕しぼがありました。

その表情を見た政子は、自分の過去を振り返ります。

頼朝の父義朝が平清盛に敗れた後、清盛は後の報復を恐れて12歳の頼朝を殺そうとします。

しかし、清盛の義母の懇願によって頼朝は処刑を免れ、伊豆に幽閉されます。

その監視役こそ北条時政で、政子はその娘でした。

荒々しく、粗野な東国の武士とは異なり、都育ちで洗練された源氏の嫡男ちゃくなん頼朝に、政子は恋をします。

そして、父の猛反対を押し切って、豪雨の中、夜中に頼朝のもとに忍び入ったこともありました。

その頃の禁断の恋、一途な恋の思い出がよみがえってきます。

健気けなげに、可憐かれんに舞う静の姿に、いつしか自分の過去の姿を投影するのです。

政子は静に言います。

 

あっぱれである。

思い人に対する切情せつじょうを、この敵の面前で訴えたのは見上げた根性である。

 

そして、政子は頼朝に耳打ちします。

 

白拍子と聞いていましたが、なかなかしんのある、見上げた女性でありました。

この際、命は救ってあげればよいと存じます。

しかし、お腹の子どもは後のうれいとなりましょう。

女子おなごだったら許し、男児であった場合は殺すのがよいと存じます。

 

皮肉にも、生まれてきた子は男の子。

この子は生まれて間もなく、静の手から無理やり引き離され、由比ヶ浜ゆいがはまに沈められたと伝えられています。

 

どうでしたか。

歴史に残る人物には、やはりそれなりの逸話があるものですよね。

ぜひみなさんも、ここぞというときは勝負に出てみてはどうでしょうか。

心理学では、挑戦して失敗したことによる後悔より、挑戦しないで終わったことによる後悔の方が心の傷は深いと言います。

一度しかない人生、大きく生きてみませんか。

Sky is the limit‼

 

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