とんでもねえ奴がいた…/不屈の歴史家『史記』の編纂者司馬遷の逸話

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はじめに

歴史に名を残す人は、それなりの逸話を持っています。

TBS系列で、毎回各界の、今が旬の有名人を取り上げる「情熱大陸」というドキュメント番組がありますね。

観ていると、その有名人には必ずと言っていいほど、視聴者を圧倒させるような逸話があるものです。

そのようなチャレンジングな人だからこそ、その道の成功者にのし上がることができるのだろうと思います。

常々、生徒に言うのですが、歴史に名を刻みたいと考えているのであれば、また何かの道の到達者になりたいと考えているのであれば、それ相応の冒険が必要になります。

「情熱大陸」に取り上げられる人物のように、30分番組を成立させられるだけの挑戦的な活動・業績・逸話というものを、これから獲得していきなさい、そのようなことをよく生徒に伝えるのです。

いずれ社会の第一線で活躍したいと考えている方、多くの人のリーダーになって世の中を変革したいと考えている方、小さくまとまった生き方をしていませんか。

本日も、歴史上の人物のアッと思わせるような逸話を紹介しますので、ぜひこれからの人生のヒントとしてみてください。

Life is immense‼

 

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史聖司馬遷、父の遺志を継ぐ

司馬遷しばせんあざな(=名前とは別に付ける呼び名)は子長しちょう

 

しんの次の王朝、前漢ぜんかんの歴史家。

 

今から約2100年前に、夏陽かよう(現在の陝西省せんせいしょう韓城市かんじょうし)で生まれました。

 

この韓城市には、今も司馬遷の時代に作られた、都長安ちょうあんへと続く石造りの道が残されています。

 

若いころから全国を周遊して見聞を広め、やがて武帝ぶていのとき、太史令たいしれい(=天文・暦法・記録などをつかさどる官の長)となります。

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司馬遷にはライフワーク(=生涯をかけて行う仕事)というものがありました。

 

それは、時の王朝や政権、権力者の圧力に左右されない、正しい歴史書を完成させることです。

 

王朝の正当性を担保するために、前の王朝のことは酷評されるのが世の常です。

 

いつの時代も、歴史とは書いた者の「story」でしかないのです。

 

しかし、司馬遷は、例えば自分の仕える漢王朝の高祖こうそ(=初代皇帝)劉邦りゅうほうが「いくさに弱く、戦場から逃亡する際に自分の子どもを馬車から蹴落とした」といった欠点についても記したり、漢と対立した項羽こううの功績を称えたりするなど、公正な歴史の記述に努めました。

 

このように、正しい歴史が歪曲わいきょくされた形で後世に伝わらないように、司馬遷は正しい歴史書を編纂へんさんしようとしたのです。

 

これは、司馬遷の父親、太史令司馬談しばたんの悲願でもありました。

 

司馬遷は、父の遺志を継ぐ形で、百三十巻に渡る太古から前漢の武帝までの歴史書『史記』を完成させたのです。

 

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今日の逸話「司馬遷、宮刑に処せらる」

遥か中央アジアまで勢力を伸ばしていた漢にも、目の上のたんこぶともいえる存在がりました。

 

北方の遊牧民族、匈奴きょうどです。

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匈奴はたびたび漢の国境を侵し、漢に脅威を与えていました。

 

そこで、紀元前99年、武帝は寵姫ちょうき夫人の兄李広利りこうりを正規軍として匈奴征伐に向かわせます。

 

そして、その別動隊として、騎都尉きとい李陵りりょう将軍に五千の兵を与え、李広利の援軍に向かわせます。

 

しかし、李陵は李広利と合流する前に3万の匈奴兵に遭遇し、戦闘状態に陥ります。

 

圧倒的な兵力差であったにもかかわらず、李陵は8日間に渡って匈奴の兵1万を討ち取るなど奮戦します。

 

しかし、援軍が駆けつけて来ることもなく、李陵はえなく匈奴に投降することになります。

 

「李陵くだる」の報を聞いた武帝は烈火れっかのごとく怒り、群臣も軒並のきなみ李陵を非難しましたが、唯一司馬遷だけは李陵の人格や戦功を評価し、処罰するべきではないと訴え出ました

 

また、李陵が負けたのは援軍が来なかったからだと、暗に李広利将軍(=武帝の義弟)を批判したのです。

 

このことが武帝の怒りを買い、司馬遷は獄に繋がれ、処罰されることとなったのです。

 

刑罰の名は「宮刑きゅうけい」。

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この刑罰は男性の生殖器を切り落とすというもので、死刑に次いで重いとされました。

 

宮中にも男手おとこでは必要です。

 

しかし、男のままでは、宮女が多く住まう宮中で働くには不都合があります。

 

そのため、男性が宮中で働けるようにするために、男性の生殖器を取り除かれた「宦官かんがん」という官職が創設されたのですが、「宮刑」という名称はこのことに由来しています。

 

ちなみに、宦官は皇帝の側近くに容易に近づけるため、出世しやすく、希望して宦官になる者も多かったそうです。

 

刑罰としての宮刑を言い渡された者が取るべき選択肢は3つです。

 

宮刑を受け入れる。

 

莫大な金額を支払って罪を免除してもらう。

 

そして、面子めんつを守って死ぬ。

 

当時は、プライドや面子を重んじる時代です、多くの者は死を選んだそうです。

 

しかし、司馬遷は生きました。

 

なぜか。

 

父の遺志を継ぎ、次代に正しい歴史を伝える『史記』を完成させるためです。

 

任安にんあんに報ずる書」

「人の死は、時に泰山たいざんより重く、また時に鳥の毛よりも軽い。その差は、どのような目的のために死ぬかによる。宮刑というはずかしめを受けた私が、どうして死を選ばない理由があろう。そうしないのは、歴史を書き残せないまま死ぬことを無念に思うからである。私は国中の旧聞きゅうぶんを集め、体系づけ、王朝が興亡する歴史の真理を究めることを目指す。この書を世にあらわすことが出来れば、死んでも悔いはない。」

 

司馬遷は恥辱ちじょくにまみれながら、人々に嘲笑ちょうしょうされながら『史記』を完成させるのです。

 

そして、長い中国の歴史の中で、唯一「史聖しせい」の称号を贈られるのです。

 

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最後に

司馬遷の肖像画には、「あるもの」が描かれません。

 

当時、男性の肖像画には、威厳を保つために蓄える男性の象徴ともなる「あるもの」が必ず描かれます。

 

例えば、三国志の関羽かんうなどはこの「あるもの」を絶賛され、美髯公びぜんこうと称えられます。

 

もう答えが出ましたが、あるものとは「ひげ」のことです。

 

宮刑を受け入れた司馬遷には男性器がありません。

 

当然、男性ホルモンが生成されないため、司馬遷の肖像画には髯が描かれないのです。

 

『史記』伯夷列傳はくいれつでん

天道てんどう是耶ぜか非耶ひか

(天の行いとは常に正しいのだろうか。

=清く正しく生きていても、それが必ずしも報われるとは限らない。)

 

しかし、それでも司馬遷は、正しいことは正しいと主張することに徹した人でした。

 

プライドや面子は命よりも尊いと思われていた時代に、男性器を取られてもなお父の遺業を継ぎ、中国最古の通史である『史記』を完成させた司馬遷の執念は素晴らしいですね。

 

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「もう年だから…」とか、「お金がないから…」とか、「男だから…」「女だから…」とか、司馬遷の生涯を見ているとそんなものは言い訳に過ぎないと感じますよね。

 

どんな障害にも負けず、むしろそれをかてにして、一度しかない人生、明日からも目標達成に邁進していきましょう。

 

歴史に残る人物には、やはりそれなりの逸話があるものですよね。

ぜひみなさんも、ここぞというときは勝負に出てみてはどうでしょうか。

心理学では、挑戦して失敗したことによる後悔より、挑戦しないで終わったことによる後悔の方が心の傷は深いと言います。

一度しかない人生、大きく生きてみませんか。

Sky is the limit‼

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