とんでもねえ奴がいた…/悲劇の大詩人中原中也の逸話

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はじめに

歴史に名を残す人は、それなりの逸話を持っています。

TBS系列で、毎回各界の、今が旬の有名人を取り上げる「情熱大陸」というドキュメント番組がありますね。

観ていると、その有名人には必ずと言っていいほど、視聴者を圧倒させるような逸話があるものです。

そのようなチャレンジングな人だからこそ、その道の成功者にのし上がることができるのだろうと思います。

常々、生徒に言うのですが、歴史に名を刻みたいと考えているのであれば、また何かの道の到達者になりたいと考えているのであれば、それ相応の冒険が必要になります。

「情熱大陸」に取り上げられる人物のように、30分番組を成立させられるだけの挑戦的な活動・業績・逸話というものを、これから獲得していきなさい、そのようなことをよく生徒に伝えるのです。

いずれ社会の第一線で活躍したいと考えている方、多くの人のリーダーになって世の中を変革したいと考えている方、小さくまとまった生き方をしていませんか。

本日も、歴史上の人物のアッと思わせるような逸話を紹介しますので、ぜひこれからの人生のヒントとしてみてください。

Life is immense‼

 

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神童中原中也、ダダイズムに出会う

明治40(1907)年、中原中也(以下、中也)は山口県吉敷郡よしきぐん、現在の山口市に、代々医院を営む名家の長男として生まれました。

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成績は極めて優秀。

神童しんどうと呼ばれるほどで、将来は父の後を継ぐことを嘱望しょくぼうされていました。

しかし、8歳の時に弟が脳膜炎のうまくえんで亡くなったことに衝撃を受け、その喪失感そうしつかんを埋め合わせるように、中也は文学に没頭するようになります。

自らも詩や短歌の創作活動を開始し、同人誌を刊行します。

文学に傾倒けいとうするに及んで成績はみるみる悪化し、酒やタバコを覚えるなど素行不良となり、とうとう中学3年次に落第をしてしまいます。

そのため、世間体せけんていの問題もあって単身郷里を離れ、京都の立命館中学校の3年次に編入、一人暮らしを始めます。

孤独な生活のうちに、中也はますます文学に沈潜ちんせんしていきます。

この頃、中也は『ダダイスト新吉しんきちの詩』という一冊の詩集に衝撃を受けます。

それは、第一次世界大戦中にヨーロッパで産声うぶごえを上げた「既存きそんの権威・価値を否定する芸術運動」であるダダイズムの旗手きしゅ、高橋新吉の書でした。

中也は、自らを「ダダイスト中也」と称し、また文学仲間からは「ダダさん」と呼ばれるなど、ダダイズムの詩を盛んに作っていきます。

ダダイズムとは、具体的に言えば、それまで絶対的な価値を持っていたロゴス(理性や、その理性の現れである言葉)の解体・無効化を目指し、既存の表現から解き放たれたところに新しいものを見出していこうとする芸術思潮しちょうであり、前後の脈絡や文脈の連続性にこだわらない、いわば「表現の破壊」でした。

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次の詩は、中也がダダイズムに色濃く影響を受け、表現の破壊を試みていた頃の作品です。

 

春の日の夕暮

 

トタンがセンベイ食べて

春の日の夕暮はおだやかです

アンダースローされた灰があおざめて

春の日の夕暮は静かです

 

ああ! 案山子かかしはないか――あるまい

いななくか――嘶きもしまい

ただただ月の光のヌメランとするま

従順なのは 春の日の夕暮か

 

ポトホトと野の中に伽藍がらんあか

荷馬車の車輪 油を失ひ

私が歴史的現在に物を

あざける嘲る 空と山とが

 

かわらが一枚 はぐれました

これから春の日の夕暮は

無言ながら 前進します

みずからの 静脈管じょうみゃくかんの中へです

(処女詩集『山羊やぎの歌』)

 

中也の両親は教育に熱心で、ゆくゆくは医者の道に進ませようと考えていましたので、文学にのめり込む中也に批判的でした。

自分を理解してくれない親への反抗の気持ちが、中也をダダに向かわせたのかもしれません。

 

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今日の逸話「中也の恋」

大正12(1923)年9月1日11時58分32秒ごろ、関東大震災が起こります。

東京を中心として、関東地方は死者9万人以上、135万人の罹災者りさいしゃを出し、東京の半分が焼失するという未曾有みぞうの災害に見舞われました。

同じ年のある冬の日、中也はとある劇団の稽古場けいこばを訪れました。

そこで、中也は生涯を左右する人物と出会います。

それは、16歳の中也より3歳年上の女優の卵で、長谷川泰子はせがわやすこ(以下、泰子)と言いました。

泰子は東京で被災して、京都へ避難していたのです。

2人はすぐに意気投合します。

前衛ぜんえい的なダダの詩を中也が見せると、泰子は「いいじゃない」といって手放しで喜んでくれました。

その後、劇団の解散に伴って泰子は行き場を失いますが、中也は優しく「僕の下宿においで」と言い、ここから同棲生活が始まるのです。

後年、泰子は中也との関係について次のように語っています。

 

詩ができるとすぐに見せてくれました。

中原がそれを読むのを聞いて、私は涙をボロボロ流して、泣いたときもありました。

(長谷川泰子「ゆきてからぬ中原中也との愛」より)

 

泰子は中也の詩の一番の理解者だったのです。

大正14(1925)年の春、二人は上京します。

中也は詩人としての成功を求めて、そして泰子は女優としての夢を叶えるための挑戦でした。

東京に越してすぐ、中也は友人を介して5歳年上の帝大生(=東京帝国大学の学生)、後の日本を代表する文芸批評家となる小林秀雄と出会います。

以後、二人は急速に親交を深めていきます。

しかし、しばらくすると、小林と泰子は中也に内緒で逢引あいびきをするようになります。

同じ年の11月、ついに泰子は小林のもとに去るのです。

その日、中也は泰子とともに、泰子の荷物を抱えて小林が待つ家まで向かいます。

中也はこの時の心境を、このように綴っています。

 

私はほんとに馬鹿だつたのかもしれない。私の女を私から奪略だつりゃくした男の所へ、女が行くとい日、実は私もその日家を変たのだが、自分の荷物だけ運送屋に渡してしまと、女の荷物の片附かたづけを手助けしてやり、おまけに車にせがたいワレ物の女一人で持ちきれない分を、私のかたきの男が借りて待つてうちまで届けてやつたりした。

(中略)

とにかく私は自己を失つた! しかも私は自己を失つたとはその時分つてはなかつたのである! 私はたもう口惜くやしかつた。私は「口惜くやしき人」であつた。

(「我が生活」)

 

こうして、中也の前から二人の理解者が去って行ったのです。

また孤独が中也を打ちのめすのです。

泰子との破局から5年後の詩にも、泰子は登場します。

 

盲目の秋

 

私の聖母サンタ・マリア

とにかく私は血を吐いた! ……

おまが情けをうけてくれないので、

とにかく私はまつてしまつた……

(『山羊の歌』)

 

中也の心には、依然として泰子が内在していたのです。

しかし、泰子は中也のもとに戻ることはありませんでした。

それどころか、1930年12月、小林との同棲を解消していた泰子は、舞台演出家山川幸世ゆきよの子を出産します。

中也の代表作「よごれっちまった悲しみに」は、この年の4月に作られました。

この傑作は、松竹キネマの女優となっていた泰子と山川が関係を結んだ、ちょうどその頃に吐き出された詩だったのです。

 

汚れつちまつた悲しみに……

 

汚れつちまつた悲しみに

今日も小雪の降りかかる

汚れつちまつた悲しみに

今日も風さ吹きすぎる

 

汚れつちまつた悲しみは

たときつね革裘かわごろも

汚れつちまつた悲しみは

小雪のかかつてちぢこまる

 

汚れつちまつた悲しみは

なにのぞむなくねがなく

汚れつちまつた悲しみは

倦怠けだいのうちに死を夢む

 

汚れつちまつた悲しみに

いたいたしくも怖気おぢけづき

汚れつちまつた悲しみに

なすところもなく日は暮れる……

(1930年4月『白痴群』)

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最後に〜歴史に名を残す芸術家の創作姿勢(=歴史に名を連ねる人の、仕事との向き合い方)

大正12(1923)年、16歳で詩人を志してから、結核性脳膜炎のうまくえんわずらい、30歳の若さで亡くなるまでの15年間で、中也は350編の詩を作りました。

しかし、生前刊行された詩集は『山羊やぎの歌』のみでした。

没後、小林秀雄によって中也の遺稿いこうがまとめられ、第二詩集『在りし日の歌』が刊行されました。

また、戦後、戦地から帰って来た中也の親友大岡昇平しょうへいによって再評価されるに至りましたが、ゴッホやシューベルトのように生前評価されることはありませんでした

しかし、中也にはそんなことは大した問題ではなく、死の寸前まで、中也は精力的に詩作に没頭するのです。

中也が芸術に向き合う姿勢を端的に示した、中学生の時に作った短歌があります。

 

藝術げいじゅつを 遊びごとだと 思つてる そのこころこそ あれなりけれ

(『防長新聞』)

 

このように、芸術に対してストイックな考え方を持つ中也にとっては、自分の人生や実生活も詩の一部でした。

 

弟の死。

泰子との失恋。

小林秀雄の裏切り。

三角関係。

・・・・・・・

溺愛できあいした1人息子文也ふみやの死。

 

中也は、実生活や人生上のどんなに辛いことも詩にきます

「詩でしか心をなぐさめることができない」とか、「詩でしか物事を消化することができない」といった、そんな生優なまやさしいものではありません。

まるで全ての悲劇が、中也に詩を作らせるために用意されたのではないかと思わせるように、中也は傷つき打ちのめされながら、全身全霊ぜんしんぜんれいで詩をくのです。

 

羊の歌

 

安原喜弘に

Ⅰ 祈り

 

死の時には私が仰向あおむかんことを!

この小さなあごが、小さい上にも小さくならんことを!

それよ、私は私が感じ得なかつたことのために、

罰されて、死は来たるものと思

、その時私の仰向あおむかんことを!

せめてその時、私も、すべてを感ずる者であらんことを!

(『山羊の歌』)

 

「自分に舞い降りる様々な感覚を、しっかりと詩情にまで高めることが出来なかった途端とたん、自分は罰せられるのだ」という、一瞬の油断も許されない、芸術に対して自分に強いたこの強迫観念こそ、中也が没後100年以上に渡って人々の胸を突き刺すような詩をくことができた根源的な要素なのです。

実生活と自分の仕事とを完全に統合させ、自らをおそう悲劇や不幸を余すことなく詩の中に封入するという、痛々しいまでの芸術至上しじょう主義的な態度こそが、中也が歴史に名を残すことができた重要なファクターなのです。

これから何かを成し遂げたいと考えている方は、この中也の姿勢を胸に刻み、目標達成までの道のりを一心不乱いっしんふらん邁進まいしんしてください。

 

歴史に残る人物には、やはりそれなりの逸話があるものですよね。

ぜひみなさんも、ここぞというときは勝負に出てみてはどうでしょうか。

心理学では、挑戦して失敗したことによる後悔より、挑戦しないで終わったことによる後悔の方が心の傷は深いと言います。

一度しかない人生、大きく生きてみませんか。

Sky is the limit‼

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