はじめに
歴史に名を残す人は、それなりの逸話を持っています。
TBS系列で、毎回各界の、今が旬の有名人を取り上げる「情熱大陸」というドキュメント番組がありますね。
観ていると、その有名人には必ずと言っていいほど、視聴者を圧倒させるような逸話があるものです。
そのようなチャレンジングな人だからこそ、その道の成功者にのし上がることができるのだろうと思います。
常々、生徒に言うのですが、歴史に名を刻みたいと考えているのであれば、また何かの道の到達者になりたいと考えているのであれば、それ相応の冒険が必要になります。
「情熱大陸」に取り上げられる人物のように、30分番組を成立させられるだけの挑戦的な活動・業績・逸話というものを、これから獲得していきなさい、そのようなことをよく生徒に伝えるのです。
いずれ社会の第一線で活躍したいと考えている方、多くの人のリーダーになって世の中を変革したいと考えている方、小さくまとまった生き方をしていませんか。
本日も、歴史上の人物のアッと思わせるような逸話を紹介しますので、ぜひこれからの人生のヒントとしてみてください。
Life is immense‼
約束された将来
俗名は佐藤義清。
法名は円位、後に西行とも名乗ります。
「西行」は和歌を詠む際のペンネームとしても用いられており、故に「円位」より世間に通用していると考えられます。
義清の佐藤家は、平将門を滅ぼした藤原秀郷の直系。
奥州藤原氏の縁戚に当たります。
義清に関する資料には、両親に関する記述が幼少期で途絶えていることから、幼い時に親と死別した可能性があり、早くして佐藤家の家督を継いだと考えられています。
16歳の時に、鳥羽上皇の妻待賢門院璋子の兄徳大寺実能の家人となります。
そして、そのつてで、18歳の時には鳥羽上皇の北面武士に取り立てられます。
北面武士とは、上皇(院)の御所の北側に詰め、院の警護をする武士のことです。
平清盛とは北面武士の同期で、終生親交を持ったとされます。
また、和歌を詠じることにも熱心で、宮中の歌会にも参加を許されています。
のみならず、公家の儀式や習慣、所作を研究する有職故実にも精通していました。
このように、義清は文武に長け、有力貴族の後ろ盾もあり、将来はエリートになることが保証されているような環境に身を置いていました。
今日の逸話①禁断の恋
主君である鳥羽上皇には非常に可愛がられ、義清自身も上皇を父のように慕っていました。
「上皇」とは、天皇を退位なさった後の称号で、平成天皇である明仁様はこの上皇に当たります。
この時、鳥羽上皇は天皇を退位していたとは言え、院政を行っていましたので、依然として強い影響力を持っていました。
そんなある日、武士でありながら出席を許されていた宮中の歌会で、義清はある方のお姿を見てしまうのです。
鳥羽上皇の妃、待賢門院璋子です。
璋子はこの時、義清より10歳以上年上の30代半ば。
『源氏物語』の主人公光源氏が幼い時に亡くなった母親に生き写しの藤壺に想いを寄せたように、早々に母を亡くした義清もまた年上の璋子に心を惹かれるようになるのです。
しかし、それは禁断の恋。
当時、天皇は、天照大神の子孫としてこの世に降臨なさった「現人神」とされ、神と同等の存在でした。
そのため、必然的にその妻である皇后もまた神の妻とされていました。
皇后に恋するのは神に恋することに等しい。
皇太后となった今は、言うなれば神の母「国母」です。
のみならず、璋子は、義清が父として仰ぐと同時に何かと目をかけて下さっている鳥羽上皇の夫。
また、璋子の兄は自分を出世に導いてくれた徳大寺実能。
璋子に対する恋に突き進めば、将来の栄達や佐藤家の未来は確実に閉ざされることになります。
例えば、六歌仙で有名な在原業平は、清和天皇に入内する(=天皇の妃となる)予定であった藤原高子に恋をし、『伊勢物語』を深読みすれば、二人は駆け落ちまでしています。
しかし、高子の兄に恋の行手を遮られ、結果として業平は都にはいられなくなります。
そして、東の国、現在の関東地方まで落ち延びるのです。
当時は、身分を越えた恋愛に突き進むと身を滅ぼす時代でした。
このように、義清は鳥羽上皇に対する忠義と、璋子に対する恋情の狭間で板挟みの状態になるのです。
忠義を選べば恋情に背くことになります。
一方、恋情を選べば忠義に背くことになります。
折しも、義清が領有していた紀伊国田仲荘(現在の和歌山県)は、鳥羽天皇との所領問題を抱えていました。
また、友人であった佐藤範康が急死するなど、人間はいつ死んでもおかしくないというこの世の無常を痛感させられる事件も起きました。
様々な問題が義清の胸を締め付ける中、義清はどういう決断を下したのでしょうか。
今日の逸話②突然の出家
1140年、義清は23歳の若さで、突如出家(仏門に入ること)をします。
謎の出家と言われることが多いですが、そんなことはありません。
上皇に対する忠義と待賢門院璋子に対する恋慕、どちらにも嘘をつかない生き方をするには、この選択しかなかったのでしょう。
それに加えて、所領問題や友人の死が義清の出家を後押ししたのでしょう。
出家の際に、西行が詠んだ歌が『詞花和歌集』に収められています。
身を捨つる 人はまことに 捨つるかは 捨てぬ人こそ 捨つるなりけれ
通釈
出家した人のことを「身を捨てる」と言うが、本当に身を捨てているのだろうか。出家していない人の方が自分自身の生き方を偽り、自分の身を捨てているのではないか。
ここから、西行は自分に嘘をつかなければならない環境を放棄して、自分の真心を貫く人生を歩み出すのです。
義清出家から5年後、璋子は病にかかります。
璋子は数奇な運命を生きた女性でした。
幼い時に、院政を行って絶大な権力を有していた白河法皇の養女となり、16歳の時に鳥羽天皇のもとに入内して顕仁親王(後の崇徳天皇)を産みますが、白河法皇とのただならぬ関係は宮中に知らない者はなく、鳥羽天皇は顕仁を「叔父子」と呼んで忌み嫌い、遠ざけます。
鳥羽天皇にとって白河法皇は祖父にあたり、もし顕仁が白河法皇と璋子の落とし胤(=子ども)だった場合、鳥羽天皇にとって顕仁は「叔父」に当たるため、叔父子と呼んだのです。
しかし、真偽のほどは分かりませんが、白河法皇と璋子の関係が事実だったとしても、白河法皇の力の前には璋子は従うほかなかったのでしょうし、事実でなかったとしても夫に白河法皇との密通を疑われ、命を賭して産んだ子を遠ざけられるのは辛かったでしょうね。
最後は、美福門院得子を寵愛するようになった鳥羽上皇に距離を置かれ、璋子はひっそりと出家し、亡くなるのです。
桜のように可憐で、しかしはかない一生でした。
西行の歌です。
花見れば そのいはれとは なけれども 心のうちぞ 苦しかりける
通釈
可憐であるが、はかなく散りゆく桜の花を見ていると、それという確かな理由があるわけではないが、心が苦しくてたまらなくなる。
「そのいはれとはなけれども」の部分が敢えて婉曲に、何らかの事実を隠匿するように詠まれていますが、西行はこよなく愛した桜の花に、この待賢門院璋子の姿を重ね合わせていたのかもしれません。
西行の愛した吉野山の桜
もう一首、西行辞世の句(=死際に詠む歌)です。
願はくは 花の下にて 春死なん その如月の 望月のころ
通釈
願いが叶うなら、どうか満開の桜の下で死にたいものだなあ。その2月(=陰暦の2月。現在の暦では3月半ばから4月)の満月がこうこうと輝いている夜に。
この和歌の通り、西行は旧暦2月、満開の桜の木の下で息を引き取ります。
この西行終焉の地からは、璋子の子崇徳上皇の陵墓、白峯陵が見えます。
崇徳上皇は鳥羽法皇に遠ざけられ、法皇の推す後白河天皇と皇位継承を巡って対立していきます。
1156年、崇徳上皇と後白河天皇の確執は保元の乱に発展し、敗れた崇徳院は讃岐国(現香川県)に配流の身となります。
そして、怨嗟の情を抱いたまま亡くなるのです。
西行は生涯をかけて、この崇徳院の御霊を慰め、哀悼しました。
これも愛した璋子に真心を尽くすためだったのではないでしょうか。
桜の木の下に横たわる西行の顔は安らかで、恐らく無念の情などなかったでしょう。
西行は自分に嘘をつかず、最後まで真心を尽くして死んでいったのです。
最後に
どうだったでしょうか。
西行とは「西」に「行く」と書きますが、「西」とは「西方浄土(=極楽浄土)」のことを指しており、つまり西方浄土への旅立ちを意味しています。
自分に嘘のない清らかな心を有する心がなければ、西方浄土に到達することは不可能です。
「西行」という法名は、残りの人生を正直に、真心を持って生きるという誓い・宣言でもあったのです。
私たちは、よく嘘をつきます。
例えば、上司におべっかを使ったり、思ってもいないことで友達に賛同したりします。
本来やりたいことがあるのに社会のレールから外れることを恐れて、または親の期待に背くことを恐れて世間的に正しいと言われる生き方をしますが、結果的に自分に背く生き方をしてしまうことがあります。
こうして、妥協や迎合、付和雷同を繰り返します。
果たして、死に際して、私たちは本当に幸せな人生だったと言えるのでしょうか。
一度しかない人生です。
西行のように自分に嘘をつくことなく、正直に清々しく生きていきたいものですね。
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