はじめに
歴史に名を残す人は、それなりの逸話を持っています。
TBS系列で、毎回各界の、今が旬の有名人を取り上げる「情熱大陸」というドキュメント番組がありますね。
観ていると、その有名人には必ずと言っていいほど、視聴者を圧倒させるような逸話があるものです。
そのようなチャレンジングな人だからこそ、その道の成功者にのし上がることができるのだろうと思います。
常々、生徒に言うのですが、歴史に名を刻みたいと考えているのであれば、また何かの道の到達者になりたいと考えているのであれば、それ相応の冒険が必要になります。
「情熱大陸」に取り上げられる人物のように、30分番組を成立させられるだけの挑戦的な活動・業績・逸話というものを、これから獲得していきなさい、そのようなことをよく生徒に伝えるのです。
いずれ社会の第一線で活躍したいと考えている方、多くの人のリーダーになって世の中を変革したいと考えている方、小さくまとまった生き方をしていませんか。
本日も、歴史上の人物のアッと思わせるような逸話を紹介しますので、ぜひこれからの人生のヒントとしてみてください。
Life is immense‼
源頼政、苦渋の決断
源頼政は平安時代後期の武士、歌人です。
その名の通り、もともとは源氏に与する(=味方する)武士でしたが、1159年の平治の乱の時に同族である源義朝から離反、平清盛に帰順することになります。
出家後の平清盛
戦国時代の武士真田家も、天下分け目の関ヶ原の戦いの際、徳川家康率いる東軍に味方するか、それとも石田三成率いる西軍に加勢するかで判断が分かれましたが、父昌幸とその次男信繁(幸村)は西軍に、長男信幸(信之)は東軍に味方することを決めました。
有名な「犬伏の別れ」ですが、この決別には、どちらが勝利しても真田の血は守られ、存続するという戦略的な意図がありました。
頼政の寝返りも「源氏」の血を絶やさないためで、恐らくはこの犬伏の別れと同じ意図があったのではないかと考えられます。
今日の逸話①鵺退治
ある時、天皇の御所である清涼殿の甍(=瓦葺きの屋根)に、毎夜鵺が出没するということがありました。
鵺とはトラツグミのことで、主に夜間に「ヒョーヒョー」と鳴くことから不吉な怪鳥とされ、忌み嫌われていました。
そこで、この鵺を退治しようということになり、ある朝臣が「弓の名手でる頼政に射させるのがよいでしょう」と進言します。
近衛天皇はそれを了承し、鵺退治の大役が頼政に下命されるのです。
鵺は夜現れます。
ただでさえ狙いを定めるのが困難な中、その夜は五月雨がしとしと降っていました。
頼政は心の中で、源氏の氏神である八幡大菩薩に念仏を唱えて、鵺の鳴き声を頼りに矢を放ちます。
すると、見事に矢は鵺を射通し、天皇のご機嫌が直るとともに、そこに居合わせた貴族からも頼政は激賞されることになります。
その中の一人が、頼政に褒美を与えると同時に、次のような和歌の上の句(五七五)を提示しました。
直訳すると、「ほととぎすは、その名を雲の上に上げたなあ」となりますが、ほととぎすは夏の鳥で、鳴き声が美しいことから、ここでは歌人頼政のメタファー(=隠喩)となっています。
また、「雲井」は「雲の上」という意味だけではなく、市井の人々からすると雲の上の存在となる「宮中(皇居)」の意もあります。
当然、今回は後者の意味で取るべきです。
つまり、この貴族は上の句で、頼政に対して次のような賞賛をしたことになります。
文武両道を称える歌だったわけです。
さて、今度は頼政の番です。
上の句を詠み込まれたからには、その上の句にふさわしい下の句(七七)を付けなければなりません。
しかし、そこは和歌の名人頼政。
すぐに下の句を詠み上げます。
弓張月の いるにまかせて
弓張月とは半月を指していますが、半月がまるで弓の弦を張っているような状態に見えることから、このように言われています。
また、「いる」という言葉は和歌によく用いられる掛詞で、「射る」と「入る」の2つの意味が兼ねられています。
つまり、頼政はこの下の句で、
と、日本人の美徳である謙遜をして見せたのです。
即座に当意即妙な下の句を詠んだこと、しかもその下の句に掛詞を用いながら謙遜したことは驚嘆せざるを得ません。
以後、頼政は文武両道の誉れ高き武士であるという評判が立ったのは、言うまでもありません。
この話には後日談があります。
この時頼政は、鵺退治用の蟇目矢(=先端に蟇の目のような穴が開けられており、放つと音が鳴るため、合戦の合図や魔除けに用いられた矢)と、鵺退治には必要のない、戦に用いる征矢(=先端に鋭い鏃がついており、殺傷能力が高い矢)を持っていました。
ある貴族がその理由を尋ねると、頼政は思いも寄らぬことを口にしました。
今日の逸話②歌人頼政の嘆願
時は平家全盛の時代です。
「平家にあらずんば、人にあらず。」
(平家でなければ、人ではない。)
しかし、頼政の姓は「源氏」です。
いかに優秀な頼政と言えども、そう簡単には出世できません。
そこで頼政は、清盛に対して次のような和歌を贈ります。
直訳すれば、「木の上に登るための方法を持たない私は木の下で、地面に自生している椎茸を拾って飢えを凌ごうか」となり、なんの面白味もない和歌となります。
先ほども申し上げた通り、この歌は頼政が清盛に出世を嘆願した時のものなのですが、どの部分にその気持ちが隠されているのでしょうか。
実は、ある言葉が掛詞(=一つの言葉に二つ以上の意味を持たせて、歌の世界観を重層的にする和歌の修辞法)になっていて、それを解明すると、この和歌の真の意味が突き止められます。
どこにその掛詞があるか、お分かりになるでしょうか。
では、ヒントです。笑
当時の法律に相当する律令では、貴族の位階は一位、二位、三位、四位、五位と続いていきます。
一位から三位までを公卿、または上達部と呼び、政権の中枢を担う身分となります。
また、五位以上の貴族は天皇の御所である清涼殿の殿上の間(=朝議はここで行われます)に上がる権利を有し、殿上人とも呼ばれます。
ちなみに、三位と四位の間には、相当な力の差がありました。
もうお分かりですね、下の句の「椎」には「四位」という意味が兼ねられていて、これを含意して解釈すれば次のような歌意になります。
この和歌の効果があったからかは定かではありませんが、後に頼政は次のように人々から呼ばれるようになります。
源三位入道頼政
出家をして「入道」という言葉が含まれていますが、しっかり三位のくらいをゲットしていますよね。
まさに頼政は戦ってよし、歌ってよしの、文武両道のお手本のような武士だったのです!
まとめ
この後、頼政の嫡男仲綱の名馬「木の下」を、清盛の次男宗盛が権力に任せて横取りするという事件が起きます。
こともあろうに、宗盛は、仲綱がその馬をすぐに差し出さなかったことを恨みに思い、その名馬に「仲綱」という焼印をして、まるで仲綱を愚弄するかのように馬を虐待するのです。
それを知った頼政は怒り、後白河法皇の皇子以仁王に嘆願し、傲り高ぶる平家追討の令旨を発布してもらうのです。
これにより、諸国で息を潜めていた源氏が一斉に立ち上がり、とうとう平家は源頼朝によって滅ぼされてしまったのです。
つまり、平家を倒すきっかけを作った真の立役者は、この源頼政であると言うこともできるのです。
頼政は武士でしたが、文の道も疎かにはしませんでした。
官位を上げていくためには、貴族の社交も心得ていなければならないからです。
このように、頼政は一族の命運を握るものとしての自覚を持ち、武士としての腕を磨くとともに、貴族の心を掴むため、歌人としての力量をも養うことによって、朝廷での存在感を獲得していこうとした、先見の明がある知勇に優れた人物だったのです。
何らかの世界で人々を牽引するようなリーダーになりたいと考えている方、またはすでに人々を主導する立場にある方は、この頼政の姿勢は参考になったのではないでしょうか。
歴史に残る人物には、やはりそれなりの逸話があるものですよね。
ぜひみなさんも、ここぞというときは勝負に出てみてはどうでしょうか。
心理学では、挑戦して失敗したことによる後悔より、挑戦しないで終わったことによる後悔の方が心の傷は深いと言います。
一度しかない人生、大きく生きてみませんか。
Sky is the limit‼
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