はじめに
歴史に名を残す人は、それなりの逸話を持っています。
TBS系列で、毎回各界の、今が旬の有名人を取り上げる「情熱大陸」というドキュメント番組がありますね。
観ていると、その有名人には必ずと言っていいほど、視聴者を圧倒させるような逸話があるものです。
そのようなチャレンジングな人だからこそ、その道の成功者にのし上がることができるのだろうと思います。
常々、生徒に言うのですが、歴史に名を刻みたいと考えているのであれば、また何かの道の到達者になりたいと考えているのであれば、それ相応の冒険が必要になります。
「情熱大陸」に取り上げられる人物のように、30分番組を成立させられるだけの挑戦的な活動・業績・逸話というものを、これから獲得していきなさい、そのようなことをよく生徒に伝えるのです。
いずれ社会の第一線で活躍したいと考えている方、多くの人のリーダーになって世の中を変革したいと考えている方、小さくまとまった生き方をしていませんか。
本日も、歴史上の人物のアッと思わせるような逸話を紹介しますので、ぜひこれからの人生のヒントとしてみてください。
Life is immense‼
清少納言、中宮(皇后)定子に出仕する
清少納言は、代々学者の家系に育ち、当時最先端の学問であった漢籍や漢詩にも通じていました。
清少納言
百人一首36番歌の清原深養父を曾祖父に、そして百人一首42番歌の清原元輔を父に持ち、自身も百人一首62番歌に名を連ねるなど、幼い時から英才教育を受けていたことが窺い知れます。
清少納言(以下、納言)の「清」の字は清原氏に由来し、「少納言」は彼女の親族の誰かの官職を女房名に拝借した可能性が高い。
ちなみに、女房とは奥さんのことではなく、貴人に仕える女官のことを指します。
橘則光とスピード離婚した後、20代後半で中宮(皇后)定子に仕え、その出仕中にエッセイ『枕草子』を執筆します。
定子は納言より10歳年下。
初対面の時のことが、『枕草子』には詳述されています。
定子は、氏の長者(藤原氏のトップ=政権の頂点)である中関白藤原道隆の娘で、筋金入りのお嬢様。
気品に溢れています。
そのため、出仕した当初は恥ずかしさのあまりに毎晩泣いていて、定子のお顔を直視できずに御几帳(部屋を仕切るための簡易的な衝立)の後ろに隠れていたという記述があります。
朝、私たちがカーテンを開けるのと同じように、明け方になると女房たちは御格子(=釣り上げ式の窓)を上げることになっていました。
しかし、部屋が明るくなると清少納言が照れてしまうので、定子は格子を上げさせなかったという件が『枕草子』に見えます。
定子と納言は、まさに相思相愛の関係でした。
本日は、納言の賢さや心遣いと、納言と定子のウィットに富んだハイセンスな逸話をご紹介します。
人間も捨てたもんじゃないよねと、最後に思っていただければ幸いです。
十二単
今日の逸話①清少納言の機転
清少納言が、いかに天才であるかを示す逸話があります。
ある日、納言のもとに藤原公任からの使いが来ます。
藤原公任と言えば、家格の高さや学問の才能はさることながら、漢詩、和歌、管弦(音楽)、いずれの才能も群を抜いていたとされ、スーパー貴公子として君臨していました。
その公任から文(=手紙)が届いたのです。
中には、ただこう書いてあります。
少し春ある 心地こそすれ
通釈
少し春めいた気持ちがするよ
この時、さすがの納言も驚いたことだと思います。
なぜなら、送ってきたのは大納言藤原公任、そして書かれた文字は和歌の下の句(七七)の部分であり、つまり公任はこの下の句に相応しい上の句(五七五)をつけて送り返せと暗に迫っているからです。
この遊びを、連歌と言います。
もう一つ、納言を困惑させた理由があります。
それは、その日は陰暦の2月末、現在の暦に直せば4月にも関わらず、都の上空には黒い雲が立ち込め、雪が舞っていたからです。
全く春めいた様子がなかったのです。
公任は納言が当惑するのを承知で、敢えてその日の天候とは真逆の下の句を送りつけたのです。
そして、平安京屈指の才女として名高かった清少納言の実力を試したのです。
連歌は即興で詠むのがルールです。
定子に相談しようかとも思いますが、あいにく定子は一条天皇とお休みになっている最中です。
公任の使者がまだかまだかと催促します。
仕方なく、納言は全集中で(笑)付け句を書いて使者に渡すのです。
空寒み 花にまがへて 散る雪に
通釈
(春にもかかわらず、今日は)寒空なので、桜の花に見間違えるようにひらひらと散っている雪に
先ほどの公任の下の句と連結してみてください。
ぴったり当てはまるどころか、舞い散る雪を桜の花に例える「見立て」という技法を見事に用いています。
これを受け取った公任ら貴族たちが、納言を激賞したのは言うまでもないでしょう。
その証拠に、この後公任の同僚の源俊賢は、納言を内侍(=天皇の女性秘書)に取り立てる奏上をしようとまで言い出すのです。
この件もあって、平安貴族はなお一層、納言に対して熱視線を送るようになるのです。
今日の逸話②納言の心遣いと定子の思いやり
納言が定子に仕えてから2年後、995年に定子の父中関白道隆が亡くなります。
ここから、中関白家の没落が始まるのです。
道隆の弟藤原道長が徐々に頭角を現し、道隆の嫡男伊周と対立していきます。
朝議で口論になったり、互いの従者同士が乱闘騒ぎを起こしたりもしました。
翌年、伊周と弟の隆家は花山法皇を弓で射るという前代未聞の不敬事件を起こし、伊周は太宰府へ、隆家は出雲の国へ左遷させられます。
長徳の変です。
この変の後、定子は髪を下ろし、出家(=仏門に入ること)をしてしまいます。
この時の納言の様子が『無名草子』に詳しく載っています。
当時執筆が開始されていた『枕草子』には、中関白家のこうした没落に関する事柄は全く記載されておらず、偏に中関白家の人々の賛美に紙幅が費やされています。
このように、中関白家を今一度盛り立て、定子を元気づけることこそ、『枕草子』の真の制作意図だったのです。
そんな中関白家に対する忠義に厚い納言ですが、出る杭は打たれるのが日本の社会です。
先ほど登場した公任は「一条朝の四納言」と呼ばれる、一条天皇に仕える優秀な大納言の一人でした。
この一条朝の四納言には、他にも藤原斉信、藤原行成、そしてこちらも先ほど登場した源俊賢がいますが、いずれも中関白家とは対立する道長派の貴族でした。
本来、中関白家に仕える人間として、対立派閥の貴族と懇意になることははばかられるわけですが、男性貴族たちは納言を放ってはおきません。
なぜか。
それは、清少納言が優秀だったからです。
清少納言は代々学者の家柄に育ち、当時最先端の学問であった漢籍・漢詩の知識も豊富です。
おまけに、納言の父は和歌所の役人で、勅撰和歌集の編纂にも携わる大学者ですので、その影響のもとで育った納言は和歌も上手なわけです。
男性貴族たちは納言と話したくて仕方がないので、納言のもとを頻繁に訪れるのです。
その状況を、定子の女房たちはよく思ってはいませんでした。
いわゆるやっかみ、嫉妬ですね。
陰でこそこそ誹謗中傷されていることに胸を痛め、納言は実家に帰ると言って定子のもとから去ります。
定子も納言のことが大好きです。
出仕するようにという催促の手紙を頻繁に送ります。
しかし、やがてその手紙も届かなくなってしまいます。
落胆する納言のもとに、ある日他の貴族を介して定子から手紙が届きます。
他の貴族を経由して寄越された手紙に、納言は驚きます。
一体何の知らせなのか。
手紙を開いてみると、そこには「くちなし」の花が一輪、包まれていました。
くちなし
納言は切れ物です。
そのくちなしの花が何を意味しているのかをすぐに察します。
「くちなし」とは、当時よく和歌に詠み込まれた言葉で、漢字で書けば「口無し」となり、転じて「口には出さない(=心に秘めている)」という意味を併せ持っていました。
つまり、定子はこのくちなしの花一輪に、「口には出さなくても、あなたに対する秘めた想いを持っていますよ」という気持ちを託したのです。
ここには、頻繁に出仕を催促して、納言にプレッシャーをかけることをはばかる定子の優しさも込められています。
納言がこの定子の心遣いに胸を打たれ、再出仕したのは言うまでもありません。
最後に
どうだったでしょうか。
清少納言の賢さや心遣い、そして定子の思いやりには心を打たれますよね。
古典の教科書で、『枕草子』や清少納言には触れたと思いますが、実は『枕草子』は中関白家、とりわけ定子を元気づけるために書かれた優しさにあふれるエッセイだったのです。
自慢めいた話も載っていますが、その内容だって定子にお見せしては互いに腹を抱えて笑い合ったのではないでしょうか。
とかくストレスの溜まることの多い人間関係ですが、この二人の支えあいの逸話を見ると、人間も悪くないなと思いますね。
しかし、納言や定子のウィットに富んだ、洗練されたやり取りも、日ごろの修養があったからこそです。
こうした気の利いた高次元の交渉を目指して、日々様々な知識の吸収に努め、コミュニケーションに役立てていきたいものです。
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