はじめに
歴史に名を残す人は、それなりの逸話を持っています。
TBS系列で、毎回各界の、今が旬の有名人を取り上げる「情熱大陸」というドキュメント番組がありますね。
観ていると、その有名人には必ずと言っていいほど、視聴者を圧倒させるような逸話があるものです。
そのようなチャレンジングな人だからこそ、その道の成功者にのし上がることができるのだろうと思います。
常々、生徒に言うのですが、歴史に名を刻みたいと考えているのであれば、また何かの道の到達者になりたいと考えているのであれば、それ相応の冒険が必要になります。
「情熱大陸」に取り上げられる人物のように、30分番組を成立させられるだけの挑戦的な活動・業績・逸話というものを、これから獲得していきなさい、そのようなことをよく生徒に伝えるのです。
いずれ社会の第一線で活躍したいと考えている方、多くの人のリーダーになって世の中を変革したいと考えている方、小さくまとまった生き方をしていませんか。
本日も、歴史上の人物のアッと思わせるような逸話を紹介しますので、ぜひこれからの人生のヒントとしてみてください。
Life is immense‼
道長の強権政治①
藤原道長
藤原道長には同母兄が2人います。
13歳年上の道隆と、5歳年上の道兼です。
現在の私たちの感覚から言えば、兄弟とは喧嘩はしても信頼できる血縁者ということになるでしょうが、平安時代の貴族社会、特に藤原氏ではそうはいきません。
藤原氏には南家・北家・式家・京家、いわゆる藤原四家があり、
この藤原氏の頂点を極めた者を「氏の長者」と言い、四家の中でも代々北家が担って来ました。
道長三兄弟は、この北家に属しています。
同じ派閥・兄弟としてさぞ力を合わせたのだろうと思われるかもしれませんが、兄弟であろうとも氏の長者になるために骨肉の争いに発展する時代です、水面下では互いに火花を散らす状態でした。
995年、関白となっていた兄の道隆が死に、道兼が関白職を継承しますがすぐに他界。
道隆の嫡男伊周と8歳年上の道長、どちらが政権を統べる存在となるのか、政局は一騎討ちの様相を呈していました。
二人は朝議の最中に激しく口論をすることもありました。
また、互いの従者同士が乱闘騒ぎを起こし、死者まで出る状態にまで発展するなど、後の関白を巡る戦いは熾烈を極めていました。
関白とは「関り白す」の意で、天皇に代わって政権を預り、政務を執り仕切る官職であり、絶大な権力を有します。
ちなみに、摂政は「政を摂る」の意で、幼少の天皇に代わって政務を執り仕切るり仕切る人のことを言います。
時の天皇は一条天皇で、道長の姉である東三条院(詮子)と円融天皇の子どもです。
道長は、この詮子に溺愛されていました。
詮子としても、甥の伊周よりも弟の道長が活躍した方が何かと頼りになります。
詮子の働きかけもあり、道長は30歳の若さで内覧(=
翌年には右大臣、次いで左大臣となり、遂に氏の長者となるのです。
999年、道長は、わずか12歳の娘彰子を8つ上の一条天皇のもとに入内させます。
入内とは、「内裏(宮中)に入る」の意で、后として天皇に仕えるということです。
これは、それまでの史上最年少の入内となりました。
一条天皇には、道隆の娘定子がすでに中宮(皇后)として仕えていましたが、そこに無理やり彰子をねじ込んだのです。
ここに、一人の天皇のもとに二人の皇后が存在する「一帝二后」の時代が訪れるのです。
道長の強権政治②
しかし、定子を深く愛していた一条天皇は、彰子の寝所に寄り付こうとはしませんでした。
そこで道長は、当時才女として名高かった紫式部を彰子の教育係とし、彰子に高い教養を身に付けさせます。
そして、紫式部に協力を惜しまず、当時宮中で評判を博していた『源氏物語』の執筆・完成へと導きます。
彰子の部屋は一大文学サロンとなり、彰子のもとを訪ねれば、たくさんの珍しい書を読めるだけでなく、流行りの『源氏物語』を読むこともできるという評判が立ちます。
このようにして、道長はあの手この手で一条天皇の気持ちを引こうとしたのです。
向学心のある一条天皇は、徐々に彰子に心を寄せるようになっていきました。
そして、1008年、彰子は一条天皇との間に、後の後一条天皇となる敦成親王を産むのです。
これにより、道長は外戚(=天皇の母方の祖父)となって自らの権力の地盤を固めます。
1018年10月16日、道長は、今度はこの後一条天皇のもとに三女威子を入内させ、皇后とします。
つまり、自分の孫に自分の娘を嫁がせ、継続して外戚の地位に君臨しようとしたのです。
その栄華の絶頂期に道長が詠んだ和歌が残されています。
自分の政権を誇示する、有名な望月(=満月)の歌です。
こうして、道長は平安時代中期最大の栄華をその掌中に納めたのです。
藤原道長と言えば、日本史の授業でも古典の授業でも必ず登場するビッグネームで、前述したように輝かしい業績を残していますが、特段映画や大河ドラマなどで取り上げられることもなく、その業績に比べると地味な存在として認知されています。
なぜでしょうか。
それには、以下の2つの理由が考えられると思います。
①華々しい合戦や外交ではなく、政争でのし上がった人物だから。
②兄弟や有力貴族が次々に亡くなるなど、運の良さでのし上がった部分が大きいと思われているから。 |
たしかに道長は強運の持ち主です。
987年、22歳の時に左大臣源雅信の女倫子と結婚し、参議を経ずに中納言になるなど、異例の昇進を遂げます。
そして、兄の死によって氏の長者の座が手を伸ばせば届くところまで舞い降りてくるのです。
でも、実際は、道長には運が良かったでは語り尽くせない、位人臣を極めるだけの器と豪胆さがあります。
本日は、その道長の非凡さを示す逸話を3本ご紹介します。
今日の逸話①「面をや踏まぬ」
道長の父は兼家と言います。
『蜻蛉日記』の作者で、本朝三美人に数えられる藤原道綱母の夫として有名です。
ちなみに、道長三兄弟や詮子の母は時姫と呼ばれ、こちらが正妻でした。
兼家は兄との政争に勝利して関白となり、娘の詮子を円融天皇に嫁がせ、その間に生まれた一条天皇の外戚として権勢を奮いました。
しかし、実際兼家は、このような出世街道を爆進する見込みなどほとんどない境遇に生まれています。
兼家の祖父は関白藤原忠平で、この忠平の長男が実頼、次男が兼家の父師輔でした。
儒教の影響が強い当時の日本において、家督や官職は直系によって世襲されるのが世の常でした。
そのため、長男実頼の家系が関白職を代々受け継ぎ、師輔の家系はその後塵を拝するはずでした。
実頼の次男頼忠が順当に関白職を継承し(長男は早世)、その頼忠の子公任も世間の人がみな羨むほど優秀な人物であったので、当然関白職に就くと誰もが疑いませんでした。
兼家は自分の子どもたち(道隆・道兼・道長)と公任を比較して、ため息混じりにこのように述べます。
わが子どもの、影だに踏むべくもあらぬこそ、くちをしけれ。
通釈
私の子どもたちが、将来公任殿の影さえ踏むことができないのが残念でならない。
「影さえ踏むことができない」とは、それだけ至近距離に接近することもできない、つまり「公任に近寄ることができるような官職は得られないだろう」と暗に嘆いているのです。
この言葉を聞いた道隆と道兼は、父の言葉に納得して恥ずかしそうにしています。
しかし、道長はぎろっと父の顔をみて、臆することなくこう断言します。
影をば踏まで、面をや踏まぬ。
通釈
影なんてちっぽけなものは踏まないで、私は公任の面を踏んづけて見せますよ。
有名な言葉です。
「面を踏んづける」とは暴力的な意味ではなくて、「将来的に家格も身分も圧倒して、公任の面子を潰してやりますよ」という意味です。
道長が若くして人並外れた豪胆さを有していたこと、大志を胸に秘めていたことを示す逸話です。
結果として、道長は大納言止まりの公任を圧倒して、摂政・太政大臣を歴任することになります。
なぜ道長は公任を逆転できたのでしょうか。
それには、次のような理由があります。
忠平の長男実頼は娘の述子を、次男の師輔は娘の安子を村上天皇に入内させ、それぞれ外戚の地位を狙いますが、残念ながら述子は皇子を生むことなく逝去してしまいます。
一方、安子は第63代冷泉天皇、第64代円融天皇を生みます。
こうして、実権は実頼から師輔の方に傾き、その子の兼家が関白を継承し、道長の出世街道が開けるに至ったのでした。
今日の逸話②「肝試し」
ある時、道長三兄弟らは花山天皇の宿直をすることになりました。
宿直とは、寝ずの番をして貴人をお守りすることです。
五月雨がしとしとと降る深夜でした。
花山天皇は和歌や管弦の遊びにも興を失い、怖い話に話題は移っていきました。
花山天皇はおっしゃいました。
こんなに人の多い場所でさえ、怖い話を聞くと恐怖でいたたまれない気分になる。
しかし、これが人気のないところであったなら、どんなにか恐ろしいことであろう。
そんな場所に1人で行ける者をおるだろうか。
貴族の一人が「行けないでしょうな」と人々の心を代弁します。
すると、すぐに口を開いた者がいました。
道長です。
道長はこう断言します。
この発言に再び興を催した花山天皇はまたおっしゃいました。
それは愉快だ。
ならば、お前たち三兄弟は肝試しに行くがよかろう。
道隆は豊楽院へ
道兼は仁寿院へ
道長は大極殿へ
それぞれ各殿舎に一人で行ってくるのだ。
道隆と道兼は、道長のことを恨んだでしょうね。
顔色が悪くなり、絶句する二人を尻目に道長は言います。
昭慶門まで警備の者に私を送らせてください。
そこからは、私一人で大極殿まで参りましょう。
花山天皇が返事をなさいました。
道長は「なるほど」と言って、花山天皇から小刀を拝借すると、「ごめん」と言ってつかつかと大極殿に出かけていきました。
ちなみに、大極殿とは天皇の即位の式が行われる殿舎です。
昨年5月に今上天皇(=令和天皇)が即位の礼を行った際、高御座と呼ばれる御椅子に座っていらっしゃいましたが、大極殿にはその高御座が安置されていました。
高御座
当時、病気はもののけの仕業だと信じられていた時代です。
街灯などありません。
しかも、人気のない深夜の皇居を一人で歩けと言われているのですから、そこに居合わせた貴族たちは「おれじゃなくてよかった」とみな神に感謝したのではないでしょうか。
道隆は途中、何ものかの声を聞いて縮み上がって引き返します。
道兼もまた人の影を視界に捉え、恐ろしさの余りに「命あっての物種」と言って花山天皇のもとに取って返します。
この二人の様子を見て、花山天皇は扇を叩いて笑い転げます。
そして、道長の帰りは今か今かと待ち受けます。
しばらくして戻ってきた道長は、花山天皇に小刀と木片を手渡しました。
花山天皇がこの木片は何かと道長に尋ねると、道長は答えました。
これは、大極殿にある高御座の南面の柱を切り取ったものです。
一人で行ったのでは、私が本当に大極殿に参ったかどうか主上がお疑いになると思いましたので、証拠として削ったものにございます。
顔色一つ変えない、平然としたもの言いに、一同はただただ唖然とすること以外出来ませんでした。
翌日、道長が持参した木片と、高御座の柱のえぐられた跡を照合してみると、まるで刀を鞘に納めるごとくにぴったりと当てはまったのでした。
丑三つ時に、人気のない雨空の下を一人で大極殿まで行くこともさることながら、恐れ多くも天皇の高御座の一部を切り落としたことなど、道長の桁外れの度胸・豪胆さが窺い知れる逸話です。
今日の逸話③「弓争い」
道隆が兼家から関白職を継いだ後の話です。
道隆には伊周という嫡男がいました。
ある時、伊周が道隆の住む南院で弓争い(=競い弓。的に当たった矢の数を競うゲーム。)をしていた時、普段はあまり訪れない道長がひょっこり顔を出し、自分も弓争いに混ぜて欲しいと頼みます。
そこで、道長と伊周は弓の優劣を競うことになりました。
この時、道長は20歳。
伊周はその8歳下でしたが、道長より官職は上でした。
最初の勝負では、伊周の当たった矢数が道長より二本劣っていました。
そこで道隆や側にいた道隆寄りの貴族たちは、もう二回勝負を延長せよと道長に催促します。
道長もしぶしぶこれを承諾します。
その直後です、先行の道長は弓を引くや否や、強い口調で次のように言い放ちます。
そう言って放たれた矢は、見事的の中央に突き刺さります。
これを見た伊周はプレッシャーの余り、震えが止まらなくなってしまいます。
そして、当然ながら的を大きく外してしまいます。
今度は道長の番です。
道長は弓を引くと、また次のように言い放つのでした。
矢は再度、的の中央に命中します。
その威力に、的は割れんばかりです。
伊周は呆然自失の状態。
道隆は「射るな、これ以上射てはならぬ。」と言って伊周を静止する始末でした。
最後に
どうだったでしょうか。
道長は、ただ単に運の良い男だったわけではなく、少年期から類まれなる度胸と豪胆さ、そして氏の長者になる野望を胸に秘めていたのです。
だからこその出世と栄華なのです。
この弓争いの後、道長は伊周を圧倒し、伊周は自身の不祥事も重なって太宰府に左遷させられます。
しかし、道長は、最後には伊周を重く取り立てています。
肉親通しで相争う時代に幕を閉じたい。
こうした情愛深さも、道長の長期にわたる栄華を支えた理由の一つと言うことができるでしょう。
歴史に残る人物には、やはりそれなりの逸話があるものですよね。
ぜひみなさんも、ここぞというときは勝負に出てみてはどうでしょうか。
心理学では、挑戦して失敗したことによる後悔より、挑戦しないで終わったことによる後悔の方が心の傷は深いと言います。
一度しかない人生、大きく生きてみませんか。
Sky is the limit‼
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