鴨長明「方丈記」から考え直す、人間の本来の生き方

コラム

こんにちは。
本日は、「方丈記」から学ぶ、人間の本来の生き方についてです。

日本古典の傑作「方丈記」の作者鴨長明は、自身の度重なる挫折や頻発する大きな災厄から、この世の「無常」を痛感します。人間はいつ死んでもおかしくない。それは1年後、1か月後、いや明日かもしれない。限られた生命の中で、人間の生き方の本来性、あるべき姿とは何なのか?「方丈記」から読み解きます。

 

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はじめに

『方丈記』は今から800年ほど前に、鴨長明という人物によって書かれた随筆、エッセイです。清少納言の『枕草子』、兼好法師の『徒然草』と並んで、日本古典三大随筆とされている名著です。これから、皆さんと『方丈記』の世界を旅してみたいと思います。
みなさんは「無常」という言葉をご存知でしょうか。無常とは、文字通り「常では無い」こと。つまり、どんなものでも絶えず変化し、移り変わるということを意味しています。たとえば、生まれた者は必ず死を迎えますし、栄えるものはいつか必ず滅びます。それは歴史が証明しています。こうした世の中の摂理を、「無常」というわけです。無常は、『方丈記』全体を貫くテーマになっています。さっそく、有名な『方丈記』の冒頭を見てみましょう。

 

≪『方丈記』原文≫
ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人と住みかと、またかくのごとし。

 

≪現代口語訳≫
川の流れはとうとうとしていて、にその表情を変えないように見えるが、いま流れた水はもうそこにはい。水の流れがよどんで滞っているところに浮かんでくる泡は、消えては生じ、生じては消え、長い間なくならずに浮かんでいるということはない。この世界に存在している人間も、その人間の住まいも、これと全く同じようにはかない運命を背負っていることだ。

もうお分かりですね。この『方丈記』の冒頭は、無常について述べているのです。では、なぜ鴨長明は、このようなはかない考え方をもつに至ったのでしょうか。ここで、少し鴨長明の人生を振り返ってみましょう。

 

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エピソード1 父の死

鴨長明は、下鴨しもがも神社の神官の子として生まれました。あおい祭で有名な下鴨神社は当時多くの所領を有し、天皇や貴族でさえ一目を置く神社でした。その下鴨神社を、長明はいずれ継ぐはずでした。しかし、長明20歳のころ、父の長継ながつぐが急逝します。長明は、父の跡を継ぐにはまだ若く、親族の反対などもあり、下鴨神社の神官になる道を諦めざるを得ませんでした。長明最初の挫折です。長明自身、これには相当ショックを受けたようで、後年こんな和歌を詠んでいます。

 

≪『新古今和歌集』原文≫
身の望みかなひはべらで、やしろのまじらひもせで籠りて侍りけるに、葵を見て詠める

見ればまづ いとど涙ぞもろかづら いかに契りて かけ離れけん

 

≪現代口語訳≫
父の跡を継いで、下鴨神社の神官になるというわたしの望みが叶いませんで、神社の行事にも参加しないで一人籠っていました時に、下鴨神社のシンボルである葵の葉をしみじみ眺めながら詠んだ歌です。

もろ●●かずら(=葵。「もろかずら」と「もろい」を掛けている。)の葉を見ると、ますますもろ●●くも涙がこぼれてくることだ。前世からのどのような因縁があって、下鴨神社とわたしの運命はこんなにもかけ離れてしまったのだろう。

こうして、長明は神官になるという夢を捨て、今度は和歌や音楽といった芸術に自分の居場所を求めるようになります。月日は流れ、長明は歌人としてめきめき頭角を現し、また音楽の面でも琵琶びわという弦楽器の名手となります。長明の才能を高く評価した後鳥羽ごとば上皇のはからいによって、長明に、再び神官になるチャンスが訪れます。しかし、またしても親族の妨害に遭って、その夢は永遠に叶わぬものになったのです。長明50歳、二度目の挫折です。
この後、長明は鎌倉幕府の三代将軍源実朝さねとものもとを訪れます。それは、和歌を愛した実朝に歌の指南をするためでした。しかし、実朝が和歌の師匠に選んだのは藤原定家ていかという和歌の大家でした。長明三度目の挫折です。
このように、長明の人生は挫折の連続でした。まさに浮かんでは消え、浮かんでは消えを繰り返すあぶく(=泡。)のような生涯だったのです。この経験から、鴨長明は無常を強く意識するようになったのです。

 

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エピソード2 安元の大火

長明がこの世の無常を強く意識するようになった理由は、挫折だけにあるわけではありません。平安時代末期、平安京では大災害が相次ぎます。安元の大火と呼ばれる大火事も、その一つです。『方丈記』には、その時の様子が生々しく克明に描かれています。

 

≪『方丈記』原文≫
われ、ものの心を知れりしより、四十よそじ余りの春秋はるあきを送れる間に、世の不思議を見る事、ややたびたびになりぬ。んじ安元三年四月うづき廿八日はつかあまりようかかとよ、風烈しく吹きて、静かならざりし夜、いぬの時ばかり、都の東南たつみより火で来て、西北いぬいに至る。果てには、朱雀門すざくもん大極殿だいごくでん・大学寮・民部省などまで移りて、一夜のうちに、塵灰ちりはいとなりにき。
火元ほもとは、樋口富小路ひぐちとみのこうじとかや。舞人まいびとを宿せる仮屋よりで来たりけるとなん。吹き迷ふ風に、とかく移りゆくほどに、扇をひろげたるがごとく、末広になりぬ。遠き家はけぶりにむせび、近き辺りは、ひたすらほのおを地に吹きつけたり。空には灰を吹き立てたれば、火の光に映じて、あまねくくれないなる中に、風に堪へず、吹き切られたる焔、飛ぶがごとくして、一二町を越えつつ、移りゆく。その中の人、うつし心あらんや。あるいは、煙にむせびて倒れ伏し、或は、焔にまぐれて、たちまちに死ぬ。或は、身一つからうぢてのがるるも、資財を取りづるに及ばず。七珍万宝しっちんまんぽう、さながら、灰燼かいじんとなりにき。そのついえ、いくそばくぞ。そのたび、公卿くぎょうの家、十六焼けたり。まして、そのほか、数へ知るに及ばず。すべて、都のうち、三分さんぶが一に及べりとぞ。男女なんにょ死ぬる者、数十人、馬・牛のたぐひ、辺際へんさいを知らず。
人の営み、みな愚かなる中に、さしも危ふき京中きょうじゅうの家を作るとて、宝を費やし、心を悩ます事は、すぐれてあぢきなくぞはべる。

 

≪現代口語訳≫
わたしが、この世の道理を理解するようになってから、四十年以上の歳月を経過する間に、世の中に起こる不思議な現象を目の当たりにすることが度々あった。安元三年の四月二十八日だったか、風が激しく吹き荒れて騒がしい夜、午後八時くらいに、都の東南辺りから出火して、その火は瞬く間に西北に迫って行った。挙げ句に、朱雀門・大極殿・大学寮・民部省にまで燃え広がり、それらの建物は一夜のうちに灰と化してしまった。
火元は、樋口富小路辺りで、なんでも舞人を宿泊させていた仮小屋から出火したということだ。吹き迷う風に乗って、炎は勢いよく扇を広げたように、末広がりに拡大していく。炎から離れたところにある家の住民は煙にむせび、炎のすぐ近くにある家には、無数の火炎が地面に吹きつけてくるように降り注いでいる。強く吹き付ける風が灰を空高く舞い上げたので、その灰に火の光が映り込んで、どこもかしこも真っ赤だ。風に耐えることができずに舞い上げられた炎は、自らの意思で飛んで行くように、一、二町を飛び越えて一気に延焼していく。その火災の真っただ中にいる人は、正気でいられるだろうか。ある者は、煙にむせいで倒れ伏し、ある者は炎に包まれてあっという間に火だるまになって死んでしまう。ある者は身一つで辛うじて逃げのびることができた。が、今まで必死になってため込んだ財産を持ちだすこともできずに途方に暮れる。世にも珍しい財宝の数々が、一瞬のうちに灰と化してしまった。その被害額は一体どれくらいだろうか。やがて、身分の高い貴族の家も全部で十六棟が全焼した。まして、所狭しと並んでいる庶民の邸宅などは一体どれくらいが焼け落ちただろうか。まったく、この火事で平安京の三分の一が焼き尽くされたようだ。男も女も、死んだ者は全部で数十人。馬や牛といった家畜の類は数えきれないくらい死んだ。
人間のすることなどは愚かなことが多いが、こんなにも危険な平安京の中に家を造るといって、財産と心血を注ぎこもうとするのは、まったくもってつまらないことでございます。

 

当時は、木造建築が主流でしたので、ひとたび火事が発生すると、火の手は瞬く間に広がります。この火事で、平安京の三分の一が焼失します。庶民の家だけではなく、豪華を尽くした貴族の邸宅も、平安京の華麗な宮殿も、激しく炎上しては崩落していくのを、長明は実際に目の当たりにします。そして、気づくのです。家などというものは、どんなに工夫を凝らして絢爛豪華けんらんごうかに造っても、いずれ必ずなくなるのだ。人間だって同じだ。生きとし生けるものは必ず死ぬ。どんなに立派な豪邸を建てたところで、あの世に持ってはいけない。それなのに、どうして人間は自分の住まいにこだわったりするのかと。なんだかきれい事のように聞こえますが、そんなことはありません。長明は実際、自分の家に対するこだわりを捨てています。
長明はもともと下鴨神社の跡取りであったため、何不自由ない生活をしていました。父方の祖母の遺産を受け継ぎ、青春期は大豪邸に住んでいました。しかし、父が死に、親族との関係が壊れると、長明はその家から引っ越します。新しい住居は、前の家の十分の一の広さであると、長明自身が述べています。それでも、暮らすのには十分な敷地面積を持っていました。やがて、世の無常を痛感し、出家した長明は、最終的に3メートル四方のあばら家に住むことになります。3メートルは当時の単位では「」といい、一辺3メートル四の家で執筆したものだから、このエッセイを『方丈記』と呼ぶわけです。つまり、長明は口先だけで、豪華な住居を建築することの愚かさを主張したのではなく、実際にそれを実践した人なのです。どうでしょうか。長明の言うことに説得力が出てきたのではないでしょうか。
確かに、建築技術が発達した現在でも、100年前に建てられた建造物が残っている例はめったにありません。修学旅行で訪れた古い神社仏閣にしても、よく調べてみれば、再建されたものばかりです。運よく自分の住みかが生涯崩れなかったとしても、その家を来世に持っていくことはできません。せっかく稼いだお給料を、住宅ローンに費やすのはもったいないかもしれませんね。

 

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エピソード3 養和の大飢饉

安元の大火から四年後、長明27歳のころ、平安京をまた災いが襲います。養和の大飢饉です。養和元年、西暦1181年から二年間、平安京は日照りや台風、洪水に見舞われ、穀物は実らず、人々は飢えに苦しみます。

 

≪『方丈記』原文≫
明くる年は、立ち直るべきかと思ふほどに、あまりさへ、疫癘えきれいうち添ひて、まさざまに、あとかたなし。世の人みなけいしぬれば、日を経つつきはまりゆくさま、少水しょうすいうおのたとへにかなへり。はてには、笠うち着、足ひき包み、よろしき姿したる者、ひたすらに家ごとに乞ひありく。かくわびしれたる者どもの、ありくかと見れば、すなはち倒れ伏しぬ。築地ついじのつら、道のほとりに、飢ゑ死ぬる者のたぐひ、数も知らず。取り捨つるわざも知らねば、臭き世界に満ち満ちて、変はりゆくかたちありさま、目もあてられぬ事多かり。いはんや、河原などには、むま・車のゆきかふ道だになし。あやしきしづ山がつも、力尽きて、たきぎさへともしくなりゆけば、頼むかたなき人は、みずからが家をこぼちて、市にでて売る。一人が持ちて出でたるあたい一日ひとひが命にだに及ばずとぞ。あやしき事は、薪の中に赤きつき、箔など所々に見ゆる木、あひ混じはりけるを、尋ぬれば、すべきかたなき者、古寺ふるでらに至りて仏を盗み、堂の物の具を破り取りて、割り砕けるなりけり。濁悪じょくあくの世にしも生まれあひて、かかる心うきわざをなん見はべりし。
また、いとあはれなる事も侍りき。さりがたきおとこ持ちたる者は、その思ひまさりて深き者、必ず、先立ちて死ぬ。そのゆは、我が身は次にして、人をいたはしく思ふ間に、まれまれ得たる食ひ物をも、かれに譲るによりてなり。されば、親子ある者は、定まれる事にて、親ぞ先立ちける。また、母の命尽きたるを知らずして、いとけなき子の、なほを吸ひつつ臥せるなどもありけり。

 

≪現代口語訳≫
養和の大飢饉が始まって一年が過ぎ、この悲劇も終息するだろうと思われたが、飢饉だけではなく、その上疫病までも発生し、人々の苦しみはますますひどくなる一方だった。人々は飢えに苦しみ、その状況が日を追って悪化していく様子は、まるでわずかな水の中で死を待つ魚のようだ。挙句には、丁寧に笠をかぶり、きちんと足袋をはいた、上品な身なりをしているお方が、何軒も何軒も必死に物乞いをして歩いている。このように、生活に困り果てた者たちが、歩いたかと思うと急に倒れ伏してしまう。土塀の辺りや、道の端で飢え死んでいる者は数えればきりがないくらいいる。その死体を処理するすべもないので、死臭が辺り一面に立ち込めて、やがてその死体が変色したり、腐食して骨がむき出しになったりして、目も当てられない。まして、河原などには、処理しきれない無数の死骸が積み重ねられていて、馬や車が通行できないくらいだ。身分の低いきこりも食うに食われず、力が尽きてしまって山に行くことができない。その結果、薪が流通しなくなってしまった。明日の食事にさえ事欠く人は、自分の家を破壊して薪をこしらえ、それを市場に売りに行く。しかし、その薪を売って得られた金は、わずか一日の命を保つ食料にもならないということだ。不思議なことには、その薪の中には、赤い塗料がつき、金や銀の箔などが所々に付着した木が混じっている。これはどうしたことだと尋ねてみると、生活が苦しく、どうしようもなくなって古寺の仏像を盗み、お堂の中にある仏具を砕いて薪にしたのだそうだ。まったく汚れた世に生まれ、このような恥ずべき行為を目撃しましたことは、返す返すも辛いことです。
また非常にしみじみ悲しくなることもございました。別れがたい妻、夫を持っている者は、どちらかその愛情の深い方が必ず先に死んでしまう。なぜかといえば、自分の体は二の次にして、相手のことを大事に思うあまり、たまたま得た貴重な食料でさえも、相手に譲ってしまうからなのだ。だから、親子であれば、必ず親の方が先に死ぬ。母親の命が失われたのを知らないで、幼い子が、なおもその母親の乳を吸いながら母に寄り添っているのを見たときは、胸に迫るものを感じました。

 

教科書で習った方も多いと思いますが、文豪芥川龍之介の小説『羅生門』は、この養和の大飢饉によって荒廃した平安京が舞台になっています。『羅生門』には、老婆と下人が登場します。老婆は死んだ女の髪の毛を抜き、かつらを作ってその日を生きる糧を得ようとします。一方、下人も生きるために、その老婆の着物をはぎ取って去って行きます。この『羅生門』という小説は、まさに地獄絵図と化した平安京の惨状をよく描いています。
生きるためには尊い仏像や仏閣も砕いて薪にする。こうした自分の利益しか考えない悪の所業を目撃し、人間の尊厳さえも無常であるのかと、長明は絶望感に打ちひしがれます。しかし、愛する我が子を死なせまいと、自分の体力の疲弊も顧みずに平然と我が子に乳を吸わせ、死んで行く母親の姿に、長明は少しの希望を見出すのです。
仁和寺にんなじ隆暁りゅうぎょうという僧侶は、この飢饉の犠牲者を弔うために、死者の額に「阿」の文字を書いて、極楽浄土に旅立たせようとします。二か月間、平安京の町を歩き回って「阿」の字を書いた死者の数は、四万二千三百余りにも及んだと言います。二か月でこれだけの死者が出たのですから、二年間ではどれだけの人が命を失ったことか、想像を絶します。


長明は実際にこの有様を目の当たりにして、生きとし生けるものは必ず死ぬのだという思いを強くします。そして、ますますこの世の無常を痛感します。地位や名誉を求めて一体何になろう。そのために、毎日あくせく働くことに、一体どれだけの価値があるだろうか。出家し、京都の日野山にひっそりと暮らした長明は、時に琵琶びわを奏で、時に念仏を唱え、またある時は花鳥風月かちょうふうげつを楽しみ、またある時は一日中怠けることもします。それを妨害する人は誰もいませんし、誰かに恥じ入る必要もありません。都で暮らす人々と長明、どちらが本来の人間らしい生活なのでしょうか。

 

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エピソード4 元暦の大地震

鴨長明、31歳の時、養和の大飢饉が終息してから三年後、平安京を未曾有みぞうの大地震が襲います。世に名高い元暦げんりゃくの大地震です。山は崩れて川をうずめ、陸地は津波によって一面水浸しになる。寺院は煙を上げて倒壊し、民家が崩れる音は雷鳴のよう。家にいれば押しつぶされ、外に逃げれば地割れに惑う。余震は数カ月にわたって続く。東日本大震災をほうふつとさせる描写に、思わず息をのみます。壇ノ浦の合戦から四ヶ月後に起こったこの地震は、平家の怨念がもたらしたものとされ、平安京はまさに世紀末の様相を呈します。

 

≪『方丈記』原文≫
また、同じころかとよ、おびたたしく、大地震おおないふることはべりき。そのさま、世の常ならず。山は崩れて、河をうずみ、海はかたぶきて、陸地くがちひたせり。土裂けて、水湧きで、いわお割れて、谷にまろびる。渚漕ぐ舟は、波に漂ひ、道ゆく馬は、足の立ちまどはす。都のほとりには、在々所々、堂舍・塔廟とうびょう、一つとしてまったからず。或は崩れ、或は倒れぬ。塵灰ちりはい立ちのぼりて、盛りなるけぶりのごとし。地の動き、家のやぶるる音、いかづちに異ならず。家の内にをれば、たちまちにひしげなんとす。走りづれば、地割れ裂く。羽なければ、空をも飛ぶべからず。龍ならばや、雲にも乗らむ。恐れの中に恐るべかりけるは、ただ、地震ないなりけりとこそ覚え侍りしか。
その中に、或るもののふのひとり子の、六つ七つばかりに侍りしが、築地ついじのおほひの下に小家こいえをつくり、はかなげなるあどなし事をして遊び侍りしが、にわかに崩れ、うめられて、あとかたもなくひらにうちひさがれて、二つの目など、一寸ばかりうちだされたるを、父母ぶもかかへて、声も惜しまず悲しみあひて侍りしこそ、あはれに悲しく見侍りしか。子の悲しみには、たけきものも恥を忘れけりと覚えて、いとほしくことわりかなとぞ見侍りし。
かくおびたたしくふる事は、しばしにて止みにしかども、その名残なごり、しばしは絶えず。世の常驚くほどの地震ない、二三十度ふらぬ日はなし。十日、廿日はつか過ぎにしかば、やうやう間遠になりて、或は、四五度、二三度、もしは、一日ひとひまぜ、二三日に一度など、大方、その名残、三月みつきばかりや侍りけむ。
四大種しだいしゅの中に、すいふうは常に害をなせど、大地に至りては、異なる変をなさず。昔、斉衡さいこうのころとか、大地震おおないふりて、東大寺の仏の御首みじく落ちなど、いみじき事ども侍りけれど、なほ、このたびにはかずとぞ。すなはちは、人みな、あぢきなき事をべて、いささか、心の濁りも薄らぐと見えしかど、月日重なり、年経にしのちは、言葉にかけて、言ひづる人だになし。

 

≪現代口語訳≫
また養和の大飢饉と同じころだったか、未曾有の大地震がございました。その様子は、この世のものとは思われないほどでした。山は崩れ落ち、その土砂は川を覆い尽くし、海は傾いて、陸地を水浸しにした。地面は裂け、そこから水があふれ出て、岩は割れて谷に転がり落ちる。岸辺を航行していた船は、波に漂って制御がきかず、道行く馬は立っていられず我を失っている。都の辺りでは、あちらもこちらも、寺院の建造物が一つとして無事だったものはない。或るものは崩壊し、或るものは倒壊した。塵や灰が立ち上って、まるで盛んに煙がくすぶっているようだ。大地が揺れ、家々が破壊される音は、まさに雷鳴がとどろいているように聞こえる。家にいれば、すぐに押しつぶされそうになる。かといって、外に走り出して逃げようとすれば、地面に亀裂が入り、立ち往生する。人間には羽がないので、空を飛んで避難することができない。竜であったなら、雲にも乗ることができただろうに。この世の中で、最も恐ろしいものは地震であることだなあと、今更ながらに痛感しました。
その地震の最中、ある武士の子供で、六才か七才くらいでしょうか、土塀の脇で小さな家を造って、子供らしくかわいらしい遊びを行っていましたが、急に土塀が崩れ、その下敷きとなり、両の目が少し飛び出してしまったのを、両親が抱えて、大音声で悲しみ合ってございましたのは、なんとも気の毒でございました。子供の身の上に降りかかる悲しみは、どんな屈強な武士だったとしても、恥を忘れて、このように泣き叫び、あわれがるのだと思いました。
このように尋常ではない揺れは、しばらくしておさまったが、余震は断続的に続いた。まれに起こるような並の地震は、一日に二、三十回くらい起こった。それでも、十日、二十日と日を経るごとに、次第に減っていった。ある日は四、五度、ある日は二、三度、それが一日おき、二、三日に一度という頻度になり、だいたい余震は三ヶ月間くらい続きました。
この世の四大元素のうち、水・火・風はたびたび害をもたらすものだが、大地は目立った天変地異を起こさないと考えておりましたが、いやはやそんなことはありませんでした。昔、斉衡年間のころ、やはり都を大地震が襲って、東大寺の大仏のお首が崩落したというようなこともございましたが、やはり今回の大地震には及ばないものと思われます。地震の後、人々は、この世は無常であって、身に余る財物や住まいは無意味なものだと口々に言い合って、ようやく心の汚れも薄まったと思われました。しかし、月日が経過し、何年かが過ぎると、人々はとかく自分の利益ばかり追求し、他人と競うように、再び立派な住まいの建造にいそしむようになりました。

 

人間の力ではあらがうことのできない天災を前にして、都の人々はこの世の無常を強く意識したことでしょう。そして、東日本大震災の後、我々がそうしたように、彼らは自己中心的な生き方を悔い改め、物質的な豊かさよりも、心の豊かさを重視する生活にシフトチェンジするのです。しかし、それも長くは続きません。数年が経過すると、人々は大地震のことなどすっかり忘れてしまいます。再び窮屈な平安京に居を構え、我を張りあい、出世競争に奔走し、身に余る財産を蓄えようとするのです。どうして人間は学ばないのか。長明の嘆きが聞こえてくるようです。

長明はこの地震の後、生まれ育った家を後にします。そして、幾たびかの挫折を経て、方丈のあばら家に隠れ住みます。そこで長明は、あらゆる執着を断ち、あらゆる欲望を捨て、そうすることによってあらゆる煩悩から離れるという、いわゆる「断捨離だんしゃり」の生活に埋没します。そうして、長明は人生で初めて、穏やかで安らかな生活を手に入れるのです。
日本は天災多発国です。近年も、阪神・淡路大震災、雲仙・普賢岳の火砕流、東日本大震災、伊豆大島の豪雨など、災害は数えたらきりがありませんし、いつまたどこでどのような災禍に見舞われるか予測もつきません。つまり、わたしたちはいつ死んでもおかしくないのです。一年後か、一ヶ月後か、一日後か、それとも一秒後か。目前に死が迫った時、あなたは今の生活が本当に幸福に満ち溢れたものだったと、自信を持って言えるでしょうか。『方丈記』は、そんな疑問を我々に投げかけているのかもしれません。

いまあなたは幸せでしょうか?

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