こんにちは。
本日は、「徒然草」から学ぶ、人間の本来の生き方についてです。
『徒然草』は今から700年ほど前に、兼好法師によって書かれた随筆、エッセイです。成立後、早い時期から文化人によって愛読され、江戸時代に入ってからは印刷術の普及もあって多数の読者を獲得し、日本最初の哲学書と目され、ベストセラーになりました。主君後二条天皇の死。その後に仕えた邦良親王の死。人間はいつ死んでもおかしくない。それは1年後、1か月後、いや明日かもしれない。限られた生命の中で、人間の生き方の本来性、あるべき姿とは何なのか?『徒然草』から読み解きます。
はじめに
『徒然草』の作者は、教科書では兼好法師と表記されることが多いですが、これは本作品が出家後に執筆されたことに由来します。本名卜部兼好。その家系が、京都の吉田神社と深いかかわりを持っていたことから、没後、吉田兼好とも呼ばれるようになりました。19歳のとき、兼好は後二条天皇の秘書官として宮仕えを始めます。博学の兼好は帝からの信任厚く、順調に出世の階段を上っていきますが、30歳ごろ突如として出家してしまいます。その理由はいまだにはっきりしていませんが、その数年前に敬愛していた主君、後二条天皇がこの世を去られており、このことが、兼好出家の直接的な引き金となったとされています。
出家後、後二条天皇の皇子邦良親王の教育係となりますが、その邦良親王も27歳の若さで亡くなります。この二人の死は、兼好にこの世の「無常」を痛感させました。生あるものは必ず滅びる。栄えるものは遅かれ早かれ衰え行く。輝かしい貴族文化の衰退、鎌倉幕府の弱体化、南北朝の動乱と相俟って、はかないこの世の定め、「無常」を、兼好は嫌というほど思い知るのです。
エピソード1 「思い立ったが吉日」~決意した時こそ変革の時!
≪『徒然草』(第五十九段)原文≫
大事を思ひ立たん人は、去りがたく、心にかからん事の本意を遂げずして、さながら捨つべきなり。「しばし。この事果てて」、「同じくは、かの事沙汰し置きて」、「しかしかの事、人の嘲りやあらん。行末難なくしたためまうけて」、「年来もあればこそあれ、その事待たん、ほどあらじ。物騒がしからぬやうに」など思はんには、え去らぬ事のみいとど重なりて、事の尽くる限りもなく、思ひ立つ日もあるべからず。おほやう、人を見るに、少し心あるきはは、皆このあらましにてぞ一期は過ぐめる。
近き火などに逃ぐる人は、「しばし」とや言ふ。身を助けんとすれば、恥をも顧みず、財をも捨てて逃れ去るぞかし。命は人を待つものかは。無常の来たる事は、水火の攻むめるよりもすみやかに、逃れがたきものを、その時老いたる親、いときなき子、君の恩、人の情、捨てがたしとて、捨てざらんや。
≪現代口語訳≫
これしかないという目標が心に芽生えたなら、簡単には放り出せず、心に引っかかることが日常生活にあっても、それらをそっくりそのまま捨ててしまうべきだ。「もう少しあとで、この用事が終わってからその目標に取り掛かろう」とか、「どうせやるなら、まず今抱えているこの案件をすべてやりきってから目標に向かって動きだそう」とか、はたまた「先々人に笑われないように、あのことやこのことを、一つ残らずしっかり整理してから着手しよう」とか、挙句の果てに「長いこと、こうして生活してきているのだし、その目標事を少しの間、保留にしたとして、どれだけのことがあろう。いまさらそう慌てることもない。いつか機会があったら始めよう」などと思っているうちに、やらなければならない日々のしがらみがますます重なっていく。そして、そのしがらみは片づけては増え、片づけては増えして、結局はじめの一歩を踏み出す日はいつまで経ってもやってこない。そこら辺の人を見よ。しっかりした志を持っているように見えても、みんなこの調子で雑事に追われ、一生を棒に振るのだ。
自宅近くに火が迫ってきて、「頼む。ちょっと待ってくれ。」と言っても何の意味もない。助かりたければ、恥も外聞も捨てて、ましてや家財などにはお構いなく、着の身着のまま逃げ出すのが一番だ。この迫り来る火と同じように、どうして寿命は人を待ってくれようか。いつ死んでもおかしくない人間の定め、無常は、水や火よりも速く襲ってくる。だから、決して逃れることはできないものなのに、そんな時に、老いた親や幼い我が子、主君の恩、人付き合いに情をほだされている暇がどこにあるだろうか。
若く、血気盛んなうちは、いつか夢をかなえてやろうと大志を胸に抱くものですが、煩雑な生活の中で今の生活に甘んじ、徐々にしがらみが手足を縛るように絡まりつき、とうとう人間は決起する機会を逃すのです。
この章段の最後の言葉を見るとき、ある一人の僧侶の名前が浮かんできます。俗名佐藤義清、23歳の若さで出家した西行法師です。西行は、鳥羽上皇の北面の武士として朝廷に仕えたエリートでした。しかし、理由ははっきりしませんが、突如すべてを捨てて出家してしまいます。その際、自分の足に取りすがる娘を、西行は縁側から蹴り倒したと言われています。
≪『詞花和歌集』原文≫
身を捨つる 人はまことに 捨つるかは 捨てぬ人こそ 捨つるなりけれ
≪現代口語訳≫
仏に帰依するために出家して、俗世の自分を捨てた人が、本当に「身を捨てた」ことになるのだろうか。逆に、汚れきった俗世の自分を捨てきれないでいる人のほうが、「身を捨てている」のではないだろうか。
出家した日の翌朝、西行が詠んだ和歌です。西行の並々ならぬ覚悟がうかがえます。おそらく、兼好はこの西行を意識して、この章段の末筆を書いたと思われます。では、兼好も親を捨て、子を捨て、主君を捨て、人情を顧みずに出家したかというと、実はそうでもないのです。兼好の場合、出家当時、宮仕えはしていませんでしたし、31歳という壮年期を迎えても、結局一度の結婚もしませんでした。これは当時としては異例のことです。つまり、兼好は世間一般の幸福から隔絶された環境に身を置き、いつか俗世を離れて、自分に課せられた使命に全精力を注ぎ込むための土壌を常に用意していたのではないかとも考えられるのです。それを思うと、兼好の覚悟は西行をしのぐとさえ言えるのかもしれません。
エピソード2 「一意専心」~限りある人生、一つのことを極めろ!
《『徒然草』(百八十八段)原文》
ある者、子を法師になして、「学問して因果の理をも知り、説教などして世渡るたづきともせよ」と言ひければ、教へのままに、説教師にならんために、まづ馬に乗り習ひけり。輿・車は持たぬ身の、導師に請ぜられん時、馬など迎へにおこせたらんに、桃尻にて落ちなんは、心憂かるべしと思ひけり。次に、仏事の後、酒など勧むる事あらんに、法師のむげに能なきは、檀那すさまじく思ふべしとて、早歌といふことを習ひけり。二つのわざ、やうやう境に入りければ、いよいよよくしたく覚えて嗜みけるほどに、説教習うべきひまなくて、年寄りにけり。
この法師のみにもあらず、世間の人、なべてこの事あり。若きほどは、諸事につけて、身を立て、大きなる道をも成じ、能をもつき、学問をもせんと、行末久しくあらます事ども心には懸けながら、世をのどかに思ひてうち怠りつつ、まづ差し当りたる、目の前の事にのみまぎれて、月日を送れば、事々成す事なくして、身は老いぬ。つひに、物の上手にもならず、思ひしやうに身をも待たず。悔ゆれども取り返さるる齢ならねば、走りて坂を下る輪のごとくに衰へ行く。
されば、一生のうち、むねとあらまほしからん事の中に、いづれか勝るとよく思ひくらべて、第一の事を案じ定めて、その外は思ひ捨てて、一事を励むべし。一日のうち、一時のうちにも、あまたの事の来たらん中に、少しも益の勝らん事を営みて、その外をばうち捨てて、大事を急ぐべきなり。いづかたをも捨てじと心に取り持ちては、一事も成るべからず。
《現代口語訳》
ある人が、法師にした自分の子に、「一生懸命勉強して、仏教の因果応報の摂理を会得し、それを、民衆に説法して回るときの助けとしなさい。」と言った。その新米法師は親の言いつけどおり、説法師になろうとしたのだが、ところが、まず乗馬を習った。なぜかと言えば、その法師は自分の輿や牛車を所有していなかったので、説法を依頼されたときに、馬を差し向けられて、それにうまく乗れずに落馬してしまっては不都合だと考えたからだ。次に、説法が終わったあと、依頼者から酒などを勧められて、余興の一つもできなければ場はしらけてしまうだろうと考えて、また説法の学習を二の次にして、流行の歌謡を習い始めた。やがて、乗馬、流行歌謡それぞれプロの域に達したが、この法師はそれでも満足しない。さらに上手になりたいと思って、日夜たゆまず芸を磨いているうちに、とうとう説法を学ぶ暇もなく、年を取ってしまった。
これはなにもこの法師に限った話ではない。世間の人々は大体こんな形でその人生を終えてしまう。若いときは、多方面に首を突っ込み、どの方面の技術も獲得し、さらには芸道、学問もおろそかにするまいと、綿密で壮大な人生設計を立てるものである。しかし、時間はまだまだたっぷりあると思っていつの間にか努力を怠り、まずは目の前の仕事をこなそうとするうちに時間は経過し、何一つものにならずに老いさらばえてしまう。結局、何もかもが箸にも棒にも引っかからず、予期していたように立身出世もできず、後悔したところでもう若くもなく、坂道を勢いよく転がる車輪のように、人生は奈落の底にたたきつけられる。
だから、一生のうちで、これはというものがあるならば、優先順位をつけて、一番大事なこと以外はすべて断念し、たった一つのことに専念するべきだ。一日の間に、この一瞬の間に、あれやこれやと多くのことが頭をかすめるけれど、その中で少しでも自分のたしとなることを選択し、それ以外のことには目もくれず、目標の達成に急ぐべきだ。欲張って色んなことに執着しては、何一つ身になるものはない。
小説の神様、志賀直哉は、教科書でもおなじみの『城の崎にて』という短編小説で、電車にはねられて死にかけた自身をモデルにしながら、生きとし生けるものの生命のはかなさを描いています。また、二十世紀最大の哲学者マルティン・ハイデガーは、二度にわたる世界大戦を回顧して、「死を見つめて生きよ」と人々に説いています。人間の一生は無限ではなく有限です。こんなことは自明の理ですが、それを、身をもって自覚している人は案外少ないものです。先年の東日本大震災では、多くの尊い人命が失われました。人間はいつ死んでもおかしくないということを、この悲劇は我々に痛感させます。しかし、あれから数年が経過し、時とともにその感覚は失われていきます。多くの人が、あの日決意したはずの目標を見失い、震災前の漫然とした生活に舞い戻ってしまうのです。そして、無限であったはずの可能性は、肉体の細胞が一つ一つ死に絶えるのと同じ速さで、刻一刻と少なくなっていくのです。
後二条天皇や邦良親王の早すぎる死を目の当たりにした兼好は、人間の生命が何人にも保証されていないことを知っていました。だから、31歳という若さで、俗世の地位も名誉もかなぐり捨てて仏道に帰依するのです。また、晴れて自由人となった兼好は、和歌の道に精進します。そして、当時歌壇の権威であった二条為世の門下にあって、和歌四天王の一人とまで称されるようになったのです。果断に行動した者にしか掴めない栄光を、彼は手にしたのです。
エピソード3 「懐疑的思考」~常識に縛られず、何でも疑え!
卜部家は代々皇室ゆかりの神々を祀り、諸国の官営神社を統括する任に就いていました。兼好の父も後宇多上皇に仕えた貴族であり、兼好は社会的ステータスに恵まれた家系に育ちました。そのため、若くして多くを学ぶことができました。少年時代の兼好は、幾分ませた子供でした。
《『徒然草』(二百四十三段)原文》
八つになりし年、父に問ひていはく、「仏はいかなるものにか候ふらん」と言ふ。父がいはく、「仏には、人の成りたるなり」と。また問ふ、「人は何として仏には成り候ふやらん」と。父また、「仏の教へによりて成るなり」と答ふ。また問ふ、「教へ候ひける仏をば、何が教へ候ひける」と。また答ふ、「それもまた、先の仏の教へによりて成り給ふなり」と。また問ふ、「その教へはじめ候ひける第一の仏は、いかなる仏にか候ひける」と言ふ時、父、「空よりや降りけん。土よりや湧きけん」と言ひて笑ふ。「問ひ詰められて、え答へずなり侍りつ」と、諸人に語りて興じき。
《現代口語訳》
8歳のとき、私は父に、「仏とは、いったいどんなものなんですか。」と尋ねた。すると、父は、「仏は人がなったものなんだよ」と答えた。私にはまた新たな疑問がわいてきて、父にこう尋ねた。「じゃあ、人はどうすれば仏になれんです。」父はもっともらしく、「人は、仏の尊い教えによって仏となるのだ。」と答えた。すると、私にはまた疑問が生じて、「その尊い教えを下さる仏は、いったい誰に導かれて仏になったんですか」と尋ねた。父が言う。「その仏もやっぱり、その前からいらっしゃった尊い仏のお導きによって仏となったんだろう。」私はまた分からないことができたので身を乗り出して尋ねた。「でしたら、一番最初に教え導いた仏は、どうやって仏になることができたんですか。」そう言い終わるや否や、父は苦笑いを浮かべて、「それはその、空から降りていらっしゃったのか、はたまた大地から昇っていらっしゃったのか、誰にも分からないことだよ。」と言った。「いやはや、息子に問い詰められて困ったよ。」後日、父はみんなにこう語って、面白がっていたらしいですよ。
このように、弱冠8歳でありながら、旺盛な知識欲と、父も舌を巻く徹底的な懐疑心を、兼好は持っていました。「我思う。ゆえに我あり。」これは、近代哲学の父、ルネ・デカルトの言葉です。目の前に見える、あらゆるものの存在はどれもこれも疑わしいが、「私は本当に存在しているのだろうか」とこの瞬間に疑っている自分の疑念、思考は確実に存在している。だから、人間は存在しているのだ。これこそ、デカルトが導き出した存在論に対する回答でした。このように、近代哲学は「疑うこと」からスタートしたのです。
この世のあらゆるものは絶えず変転してやまず、川面に浮かんでくるあぶくと同じように生じては消え、消えては生じを繰り返す。この「無常」観は、当時の人々に否定的に受け取られていました。しかし、兼好はこの否定的な捉え方に疑いの目を向けます。兼好は、
《『徒然草』(第七段)原文》
世は定めなきこそいみじけれ。
《現代口語訳》
この世は無常であるのがすばらしいのだ。
と、平然と言ってのけます。また、
《『徒然草』(第十九段)原文》
折節の移り変はるこそ、ものごとにあはれなれ
《現代口語訳》
季節が移り変わる様子は、何事につけてもしみじみとしていておもしろい。
《『徒然草』(百三十七段)原文》
花は盛りに、月はくまなきをのみ見るものかは。雨に向かひて月を恋ひ、垂れ込めて春の行方知らぬも、なほあはれに情け深し。咲きぬべきほどの梢、散りしをれたる庭などこそ見どころ多いけれ。
《現代口語訳》
桜の花は満開に咲き誇っているのだけを、月は雲がかかっておらず、少しも欠けることなくこうこうと輝いているのだけを見るものだろうか。たまには簾をかけて部屋の中に閉じこり、春の様子はどんなにのどかでしょうかねえなどと言って会話をしたり、また、雨がしとしと降っているような夜に、その日見ることのできなかった月の光や形を想像してしばし時を忘れたりするのも、また一興であろう。今にも咲きそうなつぼみを持った桜の梢が風に揺らぐさまを見ると心が騒ぐし、桜の花びらが庭一面に散り敷いてあるのはなんとも感動する。これらは、決して満開の桜に劣るものではない。
そう言って、兼好は自然が変幻する様子に、無常の美を見出すのです。そして、その無常に対する肯定的な態度は自然に対してだけではなく、人間においても同様に向けられます。
《『徒然草』(第九十三段)原文》
人、死を憎まば、生を愛すべし。
《現代口語訳》
死があるから、人間の生は輝くのだ。衰えゆくからこそ、若さは尊いのだ。万一、死を憎むのなら、生をことさらいとおしく思うべきだ。
このように、兼好は、その徹底した懐疑心によって「無常」の解釈に新境地を見るのです。
エピソード4 「一心不乱」~決してぶれない信念を持て!
《『徒然草』(二百三十五段)原文》
主ある家には、すずろなる人、心のままに入り来る事なし。主なき所には、道行き人みだりに立ち入り、狐・梟やうの物も、人気に塞かれねば、所得顔に入り棲み、木霊などいふ、けしからぬ形も現はるるものなり。
また、鏡には、色・像なきゆゑに、よろづの影来たりて映る。鏡に色・像あらましかば、映らざらまし。
虚空よく物を容る。我らが心に念々のほしきままに来たり浮かぶも、心といふもののなきにやあらん。心に主あらましかば、胸のうちに、そこばくの事は入り来たらざらまし。
《現代口語訳》
主人のいる家には、わけもなく他人が勝手に出入りすることはない。しかし、主人のいない家には、通りすがりの人が勝手に上がりこみ、狐やふくろうのようにおどろおどろしい生物も、その家には人気が全く感じられないから、得意顔で棲みつこうとする。挙句に、木霊などといった奇怪な精霊もその姿を現すようになる。
また、鏡には色や形がないため、色んなものの姿を映し出す。逆に、鏡に色や形があったなら、他のものが映りこむ余地はない。
このように、からっぽの空間にはものがよく入る。我々の心の中に、様々な思念が浮かんでくるのも、心がからっぽだからであろう。心に確固とした信念があれば、胸のうちに雑念やよこしまな感情の入り込む余地は全くないのだから。
私たちは、「人間には生まれながらにして、他人とは異なる個性というものが宿っている」と思いがちです。そして、それが成長とともに立派に目覚めてくれると考えがちです。しかし、考えてみれば、それは少しおかしいのです。なぜなら、生まれたとき、私たちの心は空っぽであるはずだからです。その空っぽの心に、「あなたはイチゴが好きで、キュウリが嫌いで、サッカーに興味があって、将来医者になる運命だ」などという具体的な情報・指令があらかじめ用意されているはずがないのです。人間はその空っぽの心に、信念という指標を軸にして、個性を作り上げていくのです。
《『徒然草』(第九十二段)原文》
ある人、弓射る事を習ふに、諸矢をたばさみて的にむかふ。師のいはく、「初心の人、二つの矢を持つ事なかれ。後の矢を頼みて、始めの矢になほざりの心あり。毎度、ただ得失なく、この一矢に定むべしと思へ」と言ふ。わづかに二つの矢、師の前にて、一つをおろかにせんと思はんや。懈怠の心、みづから知らずと言へども、師これを知る。この戒め、万事にわたるべし。
道を学する人、夕には朝あらん事を思ひ、朝には夕あらん事を思ひて、かさねてねんごろに修せんことを期す。況んや、一刹那のうちにおいて、懈怠の心ある事を知らんや。何ぞ、ただ今の一念において、直ちにする事の甚だ難き。
《現代口語訳》
ある人が、弓術を習う際に、作法に則り、二本の矢を手に持って的に向かった。そのとき、弓術の師匠は言った。「初心者は二本の矢を持って的に向かってはならない。なぜなら、もう一本あるからといって、最初の矢をいい加減に射てしまう可能性があるからだ。毎回当たるか当たらないかなどといった打算的な雑念は捨て、この矢ですべてを決するという気概で矢を射よ。」と。それにしても、たかだか二本の矢を、それも師匠の前でいい加減な気持ちで射るはずがないと、当の本人は思うだろう。ところが、怠慢の心は自分さえも気づかないうちに心に生じるものである。弓術の師匠は、この初心者の胸中にその油断が芽生えることに気がついていたのである。この教訓はあらゆることに当てはまる。
その道を極めようとする人は、誰しも夜には明日があるさと思って本気で鍛錬することをせず、朝にはその日の夜があるさと思って中途半端に修練する。まだ時間はたっぷりあるから、いつかそのときに心に決めて一生懸命努力しようと考える。このように、人間は往々にして日々の怠け心に気がつかない。まして、矢を射る一瞬間のうちに芽生える油断に気がつくだろうか。どうして人間は決意した瞬間から、その信念を貫き通すことができないのだろうか。
源平合戦の折、遠く沖に浮かぶ平家の船上に掲げられた一枚の扇を、一矢入魂浜辺から見事に射抜き、将兵の士気を鼓舞して源氏を勝利に導いた武者がいます。言わずと知れた、那須与一です。「正」しいという漢字は、「一」つに「止」まると書きます。心の中に、ぶれることのない信念が常駐していれば、那須与一のように雑念に惑わされることはないのです。一心不乱。一念発起。一所懸命。一期一会。思えば、日本語には「一」という漢字を用いた四字熟語がたくさんあります。それだけ、我々日本人は古来より潔い覚悟、ぶれない信念というものに美徳を感じてきたのでしょう。
後二条天皇に仕えていたころ、兼好は朝廷の知識人と交わり、和歌、仏教、儒教、老子や荘子の思想など幅広い教養を身に付けていきます。また、朝廷や武家の儀式や風俗に関する古来の決まり、いわゆる有職故実の精通者として世に認められます。このように兼好は多芸の人でした。しかし、残念ながら、どれも一流ではあるのですが、超一流にはなれなかったのです。兼好は出家後、西行法師がそうしたように、とりわけ和歌に打ち込みます。そして、小倉百人一首の撰者である藤原定家のひ孫で、当時歌壇の雄であった二条為世門下でめきめき頭角を現します。頓阿、慶運、浄弁とともに「和歌四天王」の一人と称されるまでになりましたが、兼好は常にその三人の後塵を拝する存在でした。多芸ではあるが、だからこそ一つのことに専念し、一芸をもって世に大家と認められることがとうとうできなかった人なのです。自分はいったい何をなすべき人間なのか、兼好は自分の心に日々問いかけます。
人間はいつか必ず死ぬ。それは一年後かもしれないし、明日かもしれない。いや、この瞬間かもしれない。自分にはしなければならにことがある。しかし、それは何なのか。ある日、兼好は硯を前にします。そして、つらつらと筆を運んでいきます。いつか思いはあふれ、草紙は墨で埋め尽くされていきます。
《『徒然草』(序段)原文》
つれづれなるままに、日ぐらし硯に向かひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書き付くれば、あやしうこそもの狂ほしけれ。
《現代口語訳》
今日は何もすることがない。だから、一日中硯を前にして自分のつまらない考えをしたためておこう。するとどうだろう、みるみるうちに思いはあふれ、何者かに操られるように筆は走り続けていく。
あまりにも有名な『徒然草』の序段です。しかし、この冒頭は、『徒然草』をある程度書き終わった後に付け加えられたとされています。はかないこの世界に、早く自分の生きた証を残さなければならないという、兼好のあせりが伝わってきます。兼好は天才エッセイスト、哲学者、多芸多才な文化人として知られていますが、決して順風満帆な人生を送ったわけではありません。芸術家としての自分の限界と戦い、苦悩する繊細な人。我々と何も変わらない弱い人間だったのです。
『徒然草』は、兼好法師が人を教え導こうという書物ではなく、どうすれば出家者として、また芸術家として、自分の道が開けるだろうかという兼好の自問自答がつづられた書物なのです。ですから、何かをしようとして、その一歩を踏み出せないでいる人に、その先輩である兼好の言葉は勇気とヒントを与えてくれます。ぜひ、『徒然草』に書かれた兼好法師の人生哲学をもっともっと味わってみてください。
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