人間五十年、下天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり。一度生を享け、滅せぬもののあるべきか。
「敦盛」(幸若舞の演目)
(人間の一生など、下天(=仏教における天上界の一つで、50年が私たちの1日に相当する世界)に比べればたかだか1日に過ぎない、夢や幻のようにはかないものだ。そのようなはかない一生なのに、生に執着して大業をなすことから逃げ、死ぬようにして生きるのはごめんである。)
大うつけ信長、家督を継ぐ
織田信長は、尾張国(=現在の愛知県)の守護代(=国を統治する守護の代わりを務める代官)であった信秀の嫡男(=後継の息子)です。
織田信長
伊勢湾熱田湊を中心とする海運を通じて莫大な富を築いた信秀は、尾張の守護斯波氏を凌ぐほどの力を手に入れ、尾張統一に向けて突き進んでいました。
あまり知られていないことですが、尾張を攻撃した今川軍を撃退したり、美濃の斎藤道三との合戦に勝利するなど、信秀は経済力だけでなく、軍事力をも蓄えていました。
しかし、信長が18歳の頃、信秀が他界し、織田家の家督を継ぐことになります。
家臣の多くが信秀恩顧の武士でした。
信長は「大うつけ(=大馬鹿もの)」と周囲から蔑まれ、なかなか人望を得ることができませんでした。
一族の離反が多発します。
このとき、信長が抱えていた問題を整理してみましょう。
①鳴海、沓掛、大高の3城が宿敵今川義元に帰順し、伊勢湾の海運の権益を奪われかねない事態になる。
②1552年、信長の弟信行の家督相続を支持していた織田信友の謀反。 ③1556年、信長の異母兄信広が美濃の斎藤義龍と組んで謀反を画策、のち失敗。 ④叔父織田信光追放。 ⑤弟信行を謀反の疑いで殺害。 ⑥美濃の斎藤氏とも対立。 |
今川義元、信長を攻める
1560年、信長27歳のとき、海道一の弓取り(=東海道に拠点を置く大名の中で最も力を有している)との異名を持つ今川義元が尾張の織田信長を攻めました。
信長が内憂外患・四面楚歌の状態に手を焼くのを好機と見た出陣でした。
今川義元は将軍家とも関係性が深く、駿河、遠江、三河の三国を領有する100万石の大大名です。
この時、今川義元率いる軍勢は25000。
対する信長はその10分の1程度。
多勢に無勢です。
戦えば尾張を滅ぼし、自らも討死する可能性が極めて高い。
降伏すれば、生き延びる可能性も残されていますが、今川家の寄親(=今川家を助ける国衆として寄子(=配下の部隊)を率いる)として今川家に搾取されていくのみです。
この圧倒的な兵力差を前に、信長は軍議に集まる家臣たちを下がらせ、一人黙念と善後策を練るのでした。
信長、出陣
斥候(=偵察兵)から一報が入ります。
今川軍の先陣2万が、我が方の鷲津砦を攻めました!
義元は残る5千の兵とともに桶狭間山に本陣を敷いてございます!
信長は、この時を待っていました。
先鋒2万五千の兵と、義元の本陣との距離は3キロ。
信長が義元を急襲しても、鷲津を攻める先鋒部隊からすぐに援軍を送ることはできません。
いまなら、兵力差はおよそ半分にまで縮まっています。
信長はすっくと立ち上がり、「敦盛」(=室町時代に流行した幸若舞の演目)を舞います。
人間五十年、下天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり。一度生を享け、滅せぬもののあるべきか。
「敦盛」(幸若舞の演目)
(人間の一生など、下天(=仏教における天上界の一つで、50年が私たちの1日に相当する世界)に比べればたかだか1日に過ぎない、夢や幻のようにはかないものだ。そのようなはかない一生なのに、
舞い終わると、信長は立ちながらにして飯をかき込み、甲冑を身にまとって号令します。
目指すは桶狭間本陣!
今川義元の首、ただ一つである!
最後に
桶狭間に勝利した信長は、合戦の際には必ず義元から奪い取った名刀「義元左文字」を自らの側に置いたと言われます。
それは、天から与えられたチャンスを活かし、覚悟を決めて行動した者に贈られた天からの褒美です。
そして、信長の自信の証です。
この一つの成功は、信長に新たな野望を見出させます。
天下布武
家督を継いだ当初は内憂外患に手を焼く状態でしたが、桶狭間の戦い以後、信長はみるみるうちに版図を広げ、天下布武を押し広げていきます。
やはり最初の決断と果断な行動、成功が彼を強くしたのです。
人間には、勝負に出なければならない時があります。
生半可な気持ちでは、夢はつかめません。
一生を捧げたいと思うものに出会うことだって、なかなかあることではありません。
だから、天から授かった夢を叶えるためには、一心不乱に困難に立ち向かう。
それくらいの気概で、物事に挑戦したいものですね。
今日の信長の言葉(敦盛)が、いつかみなさんの心を奮い立たせる時限爆弾になることを願っています。
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