【1時間目】生い立ち
宮沢賢治は、明治29(1896)年8月27日、岩手県花巻に生まれました。
中学生の頃から短歌を作りはじめ、盛岡高等農林学校(=現、岩手大学農学部)で農業を学んだ後、土壌研究員、農学校教師、農業技師として働く傍ら、詩や童話を精力的に書き続けました。
意外にも、生前出版した作品は、大正13(1924)年に出版された詩集『春と修羅』と童話集『注文の多い料理店』のみで、いずれも自費出版(各1000部)でした。
それまでの詩とは趣が異なっていたため、あまり売れ行きは芳しくなく、賢治が自ら200部買い取っています。
生前は全くの無名で、賢治が生涯で稼いだ原稿料は5円。
現在の貨幣価値に直せば、わずか4500円でした。
しかし、「汚れつちまつた悲しみに」で有名な詩人中原中也は、賢治の詩を偶然書店で見つけて購読し、これを激賞して何冊も文学仲間に配ったとされています。
また、賢治と親交があった詩人草野心平は『春と修羅』に大きな衝撃を受け、賢治を「天才」「異常な光」と評したと言います。
やはり、見る人にはその才能が分かったのでしょう。
【2時間目】父との対立
「雨ニモマケズ」他、多くの作品からも見て取れるように、賢治の人生を貫く信条は「利他」「奉仕(=献身)」「博愛」などの言葉で表せると思います。
利他・・・自分のことはさて置き、他者の利益や幸福を最優先に考えること。
奉仕・・・自分の身を捧げて、他者に仕えること。
博愛・・・広く人間を愛していこうという姿勢。ヒューマニズム。
賢治の「博愛」は人間に対する愛だけには留まりません。
自然、動物、宇宙など、あらゆるものが愛の対象として含まれます。
「わたしたちは、氷砂糖をほしいくらゐもたないでも、きれいにすきとほつた風をたべ、桃いろのうつくしい朝の日光をのむことができます。」
(『注文の多い料理店 序』)
賢治の作品は、机に向かって「創作する」という人為的な作業によって生み出されるのではありません。
自然に触れ、風の声を聴き、宇宙を感じ、銀河に包まれ、天から「降りて来た」イメージを写し取る。
だから、賢治は自分の作品を「詩」とは言わず、「心象スケッチ」という言葉で表したのです。
「なんのことだかわけのわからないところもあるでせうが、そんなところは、わたしにもまた、わけがわからないのです。」
(『注文の多い料理店 序』)
まるで砂の中から石を拾い上げるように、木の中に埋まっている木像を彫り出すかのように、自然からの贈り物をありのままにスケッチしたのです。
話が逸れましたが、上記のような信条を持つものだから、質屋を営む父とは相容れない関係となりました。
よくぶつかり合います。
当時、東北地方に限らず、百姓は貧しかった。
科学的な農業を展開しているわけではないので、毎年満足な収穫が得られるわけではありません。
だから、畑を売る。
田んぼを売る。
売る田畑がなくなれば質屋に金を借りに行く。
金を返せなければ、子どもを売り渡すこともありました。
そんな現状でも、金利をつけて百姓に金を貸し、厳しく取り立てる父の家業に対して、賢治はコンプレックスを抱えることになったのです。
なんと、父に廃業を迫ることもあったくらいです。
【3時間目】妹トシとの絆
二つ下の妹トシは、賢治のよき理解者でした。
トシは真実を追求したいという性格の持ち主で、賢治とはなんでも話せる間柄でした。
賢治が法華宗に傾倒すれば、トシも同宗に改宗。
トシが、在籍していた日本女子大学校(=現、日本女子大学)で成瀬仁蔵(=キリスト教牧師、日本女子大学校創設者)から「宇宙の意志(=いずれの宗教にも共通する精神があるという教え)」に感銘を受けると、賢治の作品にもキリスト教の要素が取り入れられるようになります。
まさに同志と言ってもいいでしょう。
そのトシが、大正11(1922)年11月22日午後8時半、24歳の若さでこの世を去るのです。
『永訣の朝』は、トシの臨終の直後に綴られた詩です。
永訣の朝
けふのうちに
とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ
みぞれがふつておもてはへんにあかるいのだ
(あめゆじゆとてちてけんじや)
うすあかくいつそう陰惨な雲から
みぞれはびちよびちよふつてくる
(あめゆじゆとてちてけんじや)
青い蓴菜のもやうのついた
これらふたつのかけた陶椀に
おまへがたべるあめゆきをとらうとして
わたくしはまがつたてつぱうだまのやうに
このくらいみぞれのなかに飛びだした
(あめゆじゆとてちてけんじや)
蒼鉛いろの暗い雲から
みぞれはびちよびちよ沈んでくる
ああとし子
死ぬといふいまごろになつて
わたくしをいつしやうあかるくするために
こんなさつぱりした雪のひとわんを
おまへはわたくしにたのんだのだ
ありがたうわたくしのけなげないもうとよ
わたくしもまつすぐにすすんでいくから
(あめゆじゆとてちてけんじや)
はげしいはげしい熱やあへぎのあひだから
おまへはわたくしにたのんだのだ
銀河や太陽 気圏などとよばれたせかいの
そらからおちた雪のさいごのひとわんを……
……ふたきれのみかげせきざいに
みぞれはさびしくたまつてゐる
わたくしはそのうへにあぶなくたち
雪と水とのまつしろな二相系をたもち
すきとほるつめたい雫にみちた
このつややかな松のえだから
わたくしのやさしいいもうとの
さいごのたべものをもらつていかう
わたしたちがいつしよにそだつてきたあひだ
みなれたちやわんのこの藍のもやうにも
もうけふおまへはわかれてしまふ
(Ora Orade Shitori egumo)
ほんたうにけふおまへはわかれてしまふ
あああのとざされた病室の
くらいびやうぶやかやのなかに
やさしくあをじろく燃えてゐる
わたくしのけなげないもうとよ
この雪はどこをえらばうにも
あんまりどこもまつしろなのだ
あんなおそろしいみだれたそらから
このうつくしい雪がきたのだ
(うまれでくるたて
こんどはこたにわりやのごとばかりで
くるしまなあよにうまれてくる)
おまへがたべるこのふたわんのゆきに
わたくしはいまこころからいのる
どうかこれが天上のアイスクリームになつて
おまへとみんなとに聖い資糧をもたらすやうに
わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ
(『春と修羅』より)
【4時間目】「永訣の朝」①(賢治の誓い)
「陰惨」という言葉が象徴的ですが、詩の前半はネガティブな表現が散りばめられています。
「惨」は訓読みでは「惨い」と読み、熟語化すれば「無惨」「悲惨」などという言葉が容易に想起されます。
また、「へんにあかるい」や「かけた」「まがつた」「くらい」「暗い」といった表現がトシ臨終の不吉さを強調していて、ここからも賢治の悲壮な思いが伝わってきます。
肉親の死を経験した者なら分かることですが、まさに生きた心地のしない、地獄にいるようなやるせない悲しみに苛まれていたのではないでしょうか。
その時、死の淵に瀕しているトシの口から、
(あめゆじゆとてちてけんじや)
(注 雨雪(=みぞれ)を取ってきてください)
という言葉が発せられます。
「あめゆじゆ」とは「雨雪」のことで、みぞれを指します。
当時、花巻では、子どもは雪に砂糖をかけて食べる習慣があったらしく、「あめゆじう」とは「あまゆき(=甘い雪)」のことを指すという説もあります。
そう考えると、一番輝かしい幼少の頃の二人の思い出が蘇ってきて、なおさら永訣(=別れ)の悲しみが強調されます。
青い蓴菜のもようのついた
これらふたつのかけた陶碗に
これらの表現にも、トシとのこれまでの生活を走馬灯のように想起している賢治の悲しみが現れています。
弱りきった妹の口からこぼれ出た「あめゆじうとてちてきんじや」という言葉を聞いた賢治は、「まがったてっぽうだま」のように、勢いよく、雪の舞い散る庭に飛び出していきます。
深い悲しみのために、まっすぐには走れない様態が「まがつた」という表現には込められています。
また、やるせない悲しみを背負っている賢治の「屈折」した思いの表象とも取ることができるでしょう。
最初、賢治は、トシが「はげしいはげしい熱やあえぎ」による喉の渇きを潤したいから、または昔を懐かしんで「甘雪」を頼んだのだと、恐らく解釈したと思います。
しかし、やがて賢治は、トシが兄である自分のために「あめゆじゆ」を取りに行くことを頼んだのだと悟ります。
死ぬといういまごろになって
わたくしを
いっしょうあかるくするために
こんなさっぱりした
雪のひとわんを
おまえは
わたくしにたのんだのだ
なぜ「あめゆじゆを取りに行くこと」が、兄のためになるのでしょうか。
これには様々な説があります。
トシの死に際して、何もしてあげられない兄の無力感をトシが察知して、妹の願いを叶えさせることでその無力感を少しでも緩和させようとしている、とも考えられます。
また、これは私見となりますが、雪の舞い散る庭に飛び出たことによって、トシの死の苦しみの一点に集中していた賢治の視点が、「銀河や太陽、気圏」といった宇宙の広がりに向けられます。
賢治にとって、「銀河」という言葉には特別な意味があります。
私たちの周りには、人、動物、植物、川、星、月、太陽など、様々なものが存在しています。
そして、私たちはそれらが個別に、つながりもなく存在していると考えています。
しかし、賢治に言わせれば、それらのものは「銀河」という共同体においてはつながりを持つのです。
家族なのです。
だからこそ、支え支えられ、また助け合わなければならないのです。
人種や宗教による対立が収束することがありませんが、この賢治の「銀河」の思想はこれからの平和の考え方にとって非常に示唆に富んでいます。
世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない
自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する
この方向は古い聖者の踏みまた教へた道ではないか
新たな時代は世界が一の意識になり生物となる方向にある
正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである
われらは世界のまことの幸福を索ねよう 求道すでに道である
(「農民芸術概論綱要」)
この「銀河」についての賢治の概念は、何でも話せる関係性であった同志であるトシも知っていたでしょう。
そこで、自分が死のうとしていることに対して苦悩する兄の視線を銀河の広がりに向けさせ、「兄の理想」を思い出させることによって、悲しみの淵から這い上がらせたかったのではないか、という解釈も成り立つと思います。
いずれにせよ、死に際してもなお、兄を気遣うトシの利他の心に強く打たれ、賢治は「まがった」心理を捨て、「まつすぐに」生きることをトシに誓うのです。
そして、トシのために、「末期の水(=臨終の際に、故人の口に水を含ませ、極楽へ送り出す儀式)」ならぬ、末期の雪を取ろうとするのです。
この雪はどこをえらぼうにも
あんまりどこもまっしろなのだ
「さいごのたべもの」として相応しい、美しく完璧な「あめゆじゆ」「天上のアイスクリーム」を取ろうとしている賢治の苦心が伝わってきます。
また、
あんなみだれたおそろしいそらから
このうつくしい雪がきたのだ
という表現からは、泥中に咲く蓮華の花を想起させ、まさに極楽浄土を連想させる神々しい描写となっています。
【5時間目】「永訣の朝」②(賢治の祈り)
(ora orade shitori egumo)
(注 あたしはあたしで、ひとりいきます)
この言葉は、後に残される肉親にとっては強烈です。
「私はあの世に旅立ちます」「死にます」と言っているわけですから、家族にとっては実感しにくい、受け入れられない言葉であったはずです。
その受け入れられない気持ちを強調するために、ローマ字表記をしたとも考えられます。
また、作中のトシの3つの言葉の中でも、家族に自らの死出の旅立ちを宣告するという、その発言の「異質さ」を表すために、表音文字、とりわけ日本人には馴染みのないアルファベットを用いたのだとも考えられます。
賢治の詩には五線譜が用いられたり、自らチェロやオルガンの演奏も行う詩人であったため、「オラオラ」といった音楽的要素を出したのだ、とも言われます。
いずれにせよ、死に際で弱りながらも、判然としない口調で「死の覚悟」を訴えかけたトシの健気さが伝わってきますし、それをにわかには受け止められない賢治の深い悲しみが伝わってきます。
(うまれてくるたて
こんどはこたにわりやのごとばかりで
くるしまなあようにうまれてくる)
(注 今度人に生まれてくるときは、自分のことで苦しむのではなく、他者に対して苦しみ、支えられる人間になりたい)
トシの遺言とも思われる言葉です。
他者救済を果たせなかったトシの悔しさに感じ入った賢治は、
どうかこれが
天上のアイスクリームになって
おまえとみんなとに
聖い資糧をもたらすように
わたくしの
すべてのさいわいをかけてねがう
と応じます。
ここまで「とし子」「わたくしのいもうと」「おまへ」と、すべてトシにだけ向けられていた視点に「みんな」が加わります。
つまり、トシが果たせなかった「人々の幸いのために生きたい」という願いを、遺志を、賢治が継承するのです。
それこそが、自分の心の中にトシがいつまでも「生き続ける」ことだと、賢治は悟ったのです。
このように、「永訣の朝」は、単なる悲しみの詩ではなく、トシの健気な優しさと死に対する決意、今度は人々のために生きたいという願いに感じ入った賢治が、他者救済の祈りを持つまでの心理的昇華を壮大に描いた作品なのです。
【6時間目】「永訣の朝」その後
賢治は病床のトシに対して、自分も一緒にあの世に連れて行って欲しいと頼みます。
トシの死後、賢治は樺太まで行き、トシの魂に接触しようとします。
これらの行動からも、この兄妹の絆の深さが見て取れるでしょう。
トシにもう一度会いたい
死んだら人(トシ)は、どこへ行ってしまうのか
代表作となった『銀河鉄道の夜』は死者の昇天について、賢治なりの解釈が描かれています。
敬虔な仏教徒であった賢治でしたが、その作品中には人種や宗教、地球の枠を大きく超えた銀河を舞台に、受難者が安らかに天に召されていく過程と、他者救済の祈りが随所に描かれています。
ジョバンニは、ああ、と深く息をしました。「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでもいっしょに行こう。僕はもう、あのさそりのように、ほんとうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない」
「うん。僕だってそうだ。」
カムパネルラの眼にはきれいな涙がうかんでいました。
「けれどもほんとうのさいわいはいったいなんだろう」
(『銀河鉄道の夜』)
(KAGAYA氏のプラネタリウム作品『銀河鉄道の夜』より)
ジョバンニとカムパネルラは志を共にしています。
ですが、自分が天に召されることを知っていたカムパネルラは、今生でそれができないことに対する聖い涙を流すのです。
カムパネルラのモデルは、一体誰だったのでしょうか?
(KAGAYA氏のプラネタリウム作品『銀河鉄道の夜』より)
賢治はトシの死後、トシの遺志を受け継ぐようにして、他者救済の道に没入します。
トシの死から3年半後、トシが療養生活をしていた宮沢家の別宅に移り住み、4年続けた農学校での教職を退きます。
人のために生きたいと思っていても、「金持ちのお坊ちゃん」と思われてしまうことに、賢治はコンプレックスを感じていました。
また、学生たちに「農業」を教えながら、自分が「農民」ではないことに矛盾を覚えていました。
貧しい農民を救済するために、自分は何をすべきかをずっと考えていたのです。
ジョバンニ「けれどもほんとうのさいわいはいったいなんだろう」
(『銀河鉄道の夜』)
賢治の答えは、百姓になることでした。
「百姓」になって独居自炊し、農民たちと苦楽を共にしながら、同じく汗水垂らして働いていくことでした。
賢治は各村々に出向き、名乗らず、料金も取らず、「土は宝」と主張して土壌や肥料などの技術指導をして歩きました。
百姓になった翌年、賢治の技術指導を受けた村々は豊作となり、賢治は非常に感謝されたと言います。
賢治が行ったのは農業指導だけではありません。
「羅須地人協会」という農民サークルを設立し、農業に関する講話、及び詩や童話の朗読を行うなど、「農業芸術」を勃興します。
もともと、仕事と宗教、芸術は一体でした。
農民は各地域に伝わる伝統的な「祭」によって神と交信して地を清め、豊作を祈願し、雨乞いをし、豊作を感謝していました。
しかし、近代化や神社合祀(=明治末期に行われた神社整理政策)によってそれらの営みは農民から切り離され、労働としての農作業だけが残ってしまいました。
賢治は、労働を支える芸術、娯楽を再興し、農民たちに生きる喜びと団結を促そうとしたのです。
その後、肋膜炎が悪化して体調を崩し、百姓生活は2年間でピリオドを打ちます。
しかし、回復した後も、砕石工場の技師になることを請われ、それに応じています。
岩手の土壌は酸性で痩せていて、石灰岩から作られる肥料が欠かせません。
そのため、賢治は石灰肥料の普及に奔走することになります。
東北関東を幾度も往来していた賢治のスーツケースには、いつも40㎏は下らない肥料が入っており、無理がたたって間もなく病気が再発し、死の床に就くことになります。
咳き込みながらも肥料の普及のために出掛けようとする賢治を、母が泣きながら制止することもありました。
自分の体のことより、他者のことを優先に考える。
まさにトシの最後の願いを受け継ぎ、最後の最後まで「他者救済」を実践した人なのでした。
【7時間目】最後に
賢治の死の半年後、実弟の宮沢清六によって、賢治の作品の中で最も人口に膾炙した詩である「雨ニモマケズ」が偶然手帳の中から発見されます。
そして、詩中の「無欲」「献身」の精神が大政翼賛会の目に留まり、その広報誌に掲載され、「欲しがりません、勝つまでは」のスローガンを後押しするプロパガンダとして利用されました。
また戦後においても、国民一丸となって敗戦からの復興に耐えるためのスローガンとして、「雨ニモマケズ」は利用されました。
幸か不幸か、こうした数奇な運命が、賢治の詩を一躍有名にしていった側面があるのです。
戦争に翻弄された賢治の作品ですが、賢治の作品には対立を乗り越えるヒントが示されています。
国柱会(法華宗系の仏教団体)に所属していた熱心な仏教徒だった賢治でしたが、トシの死後に書かれた『銀河鉄道の夜』ではキリスト教を描いています。
前述した「銀河」の思想においては、私たちは銀河共同体の住人であり家族なのです。
交わることがないなら、理解し合うこと。
融合することがないなら、認め合うこと。
国家や宗教、イデオロギーの対立が依然としてなくなることがありませんが、どこかで共通する要素を見つけ、対話を続け、互いに認め合うことの重要性とそのためのヒントが、賢治の作品には散りばめられています。
そして、「人のさいわいのためには、何をなすべきか」を常に自分に問い続けることの重要性を、私たちに語りかけています。
「そういうものにわたしはなりたい」
(「雨ニモマケズ」)
という最後の言葉には、なれないからこそなろうとする意志が含意され、他者のさいわいに思いを馳せる不断の努力を私たちに要請する、極めて未来志向の箴言(=格言)となっているのです。
コメント