【1日5分】あらすじ三国志49「劉備、徐州牧となる」|大泉洋主演『新解釈・三國志』応援企画!

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三国志
大学で中国文学を学び、長年国語の教員を勤めてきた経験を活かして、分かりやすく、簡潔に、それでいて深イイ三国志のあらすじ紹介を行っていきたいと思います! 『三国志』に興味はあるけど小説を読んだりドラマを見たりする時間はない、でも簡単なあらすじだけではもの足りない・・・。 そんな方にはぴったりです!

 

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劉備、徐州太守となる

徐州じょしゅう(=現在の山東省。記事下の地図参照。)太守陶謙とうけんがにわかに危篤きとくとなった。

 

すでに七十を超えるよわいであり、また曹操そうそうが50万の大軍を引き連れて徐州を攻めたことや、自分に代わって徐州を治める者がいまだに定まらない心労がたたってのことであろう。

 

陶謙は参謀の糜竺びじく陳登ちんとうはかり、三度みたび劉備りゅうびに後継者となることを要請することになった。

 

陶謙危篤の報が伝わると、劉備はすぐに州境しゅうざかいにある小沛しょうはいの城から駆け付けて来た。

 

「劉備、ただいま参上つかまつりました」と、劉備がうやうやしく述べると、陶謙は劉備を近くに召し寄せ、劉備の手を取って懇願こんがんするのだった。

 

玄徳げんとく(=劉備のあざな。)殿。

漢乱れてより久しく、禁中きんちゅう(=皇宮。)では天子てんし(=皇帝。献帝けんていのこと。)がないがしろにされ、逆賊ぎゃくぞく李傕りかく郭汜かくしによって朝政はほしいままにされ、外では袁紹えんしょうや曹操といった佞臣ねいしんらがおのれの野心のために漢の領土をおかすことが度重たびかさなっている。

この徐州も、もはや風前のともしびである。

わしはもう長くはない。

天子より託されたこの地を、そのようなやからに奪われてはならない、奪われたくははないのだ。

玄徳殿、そなたは皇孫。

天子の領土を守る義務があるのではないか?

この陶謙、最後の願いである。

どうか、どうかこの徐州を導き、民をいつくしんでくれ。

 

陶謙の目からは涙があふれている。

 

その様子を、劉備の背後で見ていた陶謙の群臣からは嗚咽おえつが漏れた。

 

挿入画像

高希希監督『Three Kingdoms』の陶謙と劉備

 

劉備は陶謙の手を強く握りしめながら答えた。

 

陶謙殿、そのような気弱なことをおっしゃってはなりません。

この劉備はいついつまでも小沛に残り、恭祖きょうそ(=陶謙の字。)殿の二人のご子息しそくを盛り立て、この徐州を万難ばんなんから救ってご覧に入れます。

どうぞお心を穏やかにして、ご静養下さいますように。

 

陶謙は最後の力を振り絞って遺言したのか、劉備の言葉に応えることなく、それから間もなく息を引き取った。

 

小沛に引き上げようとする劉備を制止するように、糜竺や陳登ら徐州の群臣が劉備の前で拝礼した。

 

劉備殿。

どうか、主陶謙の遺言に従いまして、この徐州をお治めください!

 

そう言われた劉備は、「私の気持ちは陶謙殿にお伝えした通りです。危急の折は何なりとお申し付けください」と述べ、徐州城を後にしようとした。

 

群臣が歯痒はがゆそうに城門で見送りする中、今度は徐州の民たちが劉備の行手ゆくてさえぎった。

 

劉備様。

黄巾賊による被害や曹操による侵略、今年に入ってからの蝗害こうがい(=いなごによる農作物への被害。)で民は疲弊ひへいしております。

その上、劉備様に去られては我々の希望はついえてしまいます。

どうかこの徐州の太守となり、末永く我々を導いてください。

 

小沛での劉備の善政は、この徐州城下の人々にも広く知れ渡っていたのである。

 

「劉備様!どうか!」の声が鳴り止まない。

 

劉備は自分を取り囲む民衆を見回しながら、万感ここに極まるというように涙をこらえていた。

 

分かった。

もう申すでない。

不肖ふしょう劉備、陶謙殿に代わってこの徐州をお預かり申す!

 

興平こうへい元(194)年、こうして劉備は、旗揚げから10年を経て、ようやく一州の主となったのであった。

 

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蝗害、猛威を振るう

曹操のはかりごとを恐れて、呂布りょふはどんなに挑発されても濮陽ぼくよう城から撃っては出なかった。

 

この年、中国北部を蝗害が襲った。

 

いなごの大群は空を覆い、またたく間に田畑の農作物を食い荒らしていく。

 

そして、全てを食べ尽くすと、無数の幼虫を残して東の州へと渡って行くのであった。

 

また、遅れて飛んで来たために食いあぶれたいなごの死骸が、野や山を埋め尽くしていた。

 

百姓は、おのれの食料や年貢ねんぐはおろか、次の年に植える稲のなえさえも収穫できない状態だったので、当然各州では兵士たちを養って行くことが困難になった。

 

呂布や曹操も、その例外ではない。

 

呂布は肥沃ひよく兗州えんしゅうを曹操から奪っていたために、危機的状況とは言え、どうにか食を繋いでいた。

 

しかし、遠征中の曹操軍は兵糧にこと欠いた。

 

そこに、「劉備、徐州を領する」の報が伝えられると、徐州を我が物と考えていた曹操は怒りをあらわにした。

 

あのむしろ売りの劉備が。

君子くんし(=徳の高い立派な人物。)を装ってはいるが、最初から徐州を取るつもりで陶謙に近づいたのであろう。

わしが徐州を狙っていることを承知で徐州を継ぐとは。

今すぐに徐州を取るぞ。

 

曹操がそう言うと、側に控えていた参謀の荀彧じゅんいくは「いけません」と言った。

 

徐州城は難攻不落。

また、いまや劉備は関羽かんう張飛ちょうひだけではなく、徐州数万の兵を手にしました。

徐州を狙えば、必ずや長いいくさとなります。

兗州も取れず、徐州も取れずでは、我が軍は中原ちゅうげん(=黄河中下流域。中国の中心。)に基盤を失いましょう。

 

曹操は不満そうに言った。

 

では、ここに止まって餓死するまで呂布とにらみ合えと言うのか?

 

荀彧は中原の地図を指差して答えた。

 

いえ、呂布は濮陽城から撃っては出て来ないでしょう。

ここに長居ながいをすれば、我が軍の兵糧は潰えます。

そこでです。

汝南じょなん頴川えいせん(=現在の河南かなん省。いずれも豫州よしゅう西部で旧都洛陽らくように近い。)に勢力を拡大している黄巾賊の残党を倒して、ここを基盤となさいませ。

 

曹操は荀彧の進言をれ、頴川地方に跋扈ばっこしていた黄巾賊こうきんぞくの残党を討伐するという大義名分のもと、領土と食糧とを賊から奪取することを目指して、進軍を開始したのであった。

 

挿入画像

西暦 出来事 年齢
劉備 孔明 曹操 孫策 袁紹 董卓 呂布
前202 劉邦が項羽を滅ぼす。漢王朝誕生。
前157 景帝が漢の皇帝に即位する。
168 霊帝が漢の皇帝に即位する。 7 13 14 30 7
181 何氏が霊帝の皇后となる。 20 26 6 27 43 20
184 黄巾の乱が起こるも、同年鎮圧。 23 3 29 9 30 46 23
189.5 霊帝が崩御し、少帝が即位する。 28 8 34 14 35 51 28
189.9 少帝が廃位され、献帝が即位する。 28 8 34 14 35 51 28
190.1 反董卓連合軍が結成される。 29 9 35 15 36 52 29
190.2 董卓、都を長安に遷す。 29 9 35 15 36 52 29
192 董卓、暗殺される。 31 11 37 17 38 54 31
193 曹操、徐州に侵攻する。 32 12 38 18 39    32
194 劉備、徐州を領する。 33 13 39 19 40   33

 

以上のあらすじは、主に吉川英治よしかわえいじ『三国志』、陳舜臣ちんしゅんしん『秘本三国志』『小説十八史略』、横山光輝よこやまみつてる『三国志』、王扶林監督『三国志演義』、高希希監督『Three Kingdoms』などをベースにしています。そのため、羅貫中らかんちゅうの『三国志演義』や陳寿ちんじゅの『正史三国志』とは内容が異なり、少なからず脚色が含まれることがあります。あらかじめ、ご了承下さい。

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