【1日5分】あらすじ三国志43「王允の死」|大泉洋主演『新解釈・三國志』応援企画!

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三国志
大学で中国文学を学び、長年国語の教員を勤めてきた経験を活かして、分かりやすく、簡潔に、それでいて深イイ三国志のあらすじ紹介を行っていきたいと思います! 『三国志』に興味はあるけど小説を読んだりドラマを見たりする時間はない、でも簡単なあらすじだけではもの足りない・・・。 そんな方にはぴったりです!

 

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王允の死

西涼せいりょう(=涼州りょうしゅう。)から進撃してきた董卓とうたくの旧臣李傕りかくら四将軍は長安城を陥落かんらくさせ、天子てんし(=皇帝。)がおられる皇宮の前まで詰め寄っていた。

 

陛下、呂布りょふの討伐軍も四散し、御林軍ぎょりんぐん(=天子を警護する軍隊。)も壊滅いたしました。

この上は、誠に恐れ多いことではございますが、陛下自ら反乱軍をいましめあそばすのが最上かと思われます。

 

侍中じちゅうがそう奏上そうじょうすると、「是非ぜひに及ばず」と献帝けんてい宣平門せんへいもん(=皇宮の入口となる門。禁門きんもん。)の楼台ろうだいにお登りになり、そこで初めて炎上する長安の市中や無数の西涼兵の存在をご覧になった。

 

陛下だ!

楼台のいただきに陛下がいらっしゃる!

 

禁門の前にたむろしていた西涼兵から、誰ともなくどよめきが起こった。

 

献帝はおっしゃった。

 

そちたちはわが皇宮に攻め入るつもりか?

 

「静まれ、静まれ!」と、李傕はどよめく兵士たちを黙らせ、献帝にこう奏上した。

 

陛下、お聞きください。

われらは陛下に危害を加えようとして、ここに参っているのではありません。

相国しょうこく(=現在の日本で言うところの内閣総理大臣。董卓のこと。)は少帝しょうていを廃し、天子を擁立し申し上げました。

また、朝廷に反旗をひるがえした袁紹えんしょうら諸侯に対抗し、ここ長安の栄華を確立しました。

しかし、王允おういんによって董相国は志半こころざしなかばにして害され、その亡骸なきがらは市中にはずかしめられ、董相国にお仕えしていた功臣らもことごと粛清しゅくせいされました。

我らはこの無道な王允をちゅうせん(=罪を責めて殺す。)と思ってせ参じたのみ。

決して陛下を害せんと参ったのではありません。

どうか王允のお引き渡しと、我らに対する恩赦と任官のみことのりを下されますように。

 

西涼兵の口々から、「王允を寄越せ!」「王允を差し出せ!」という言葉が叫ばれた。

 

献帝は、隣に伺候しこうしていた王允をちらとご覧になった。

 

すると、王允は「その言葉、決してたがえるでないぞ!」と言って、楼台からその身を投げたのだった。

 

落下して事切れた王允のむくろに対しても、西涼兵は執拗しつように剣や槍で突き刺したり、蹴飛ばしたりした。

 

大漢だいかんの復興のためとは言え、連環れんかんの計において愛娘まなむすめ貂蟬ちょうせん貞節ていせつけがし、謀略をもって董卓を死に至らしめたことによる天の裁きではないかと、後世の人々は語ったと言う。

 

しばらくして禁門は開かれ、四将軍は再び天子の自由を奪った。

 

詔は即日発せられ、李傕は車騎しゃき将軍に、郭汜かくしこう将軍に、そして樊稠はんちょう将軍、張済ちょうさい驃騎ひょうき将軍に任じられた。

 

漢王朝の政治基盤は、董卓、王允、李傕ら四将軍へと、目まぐるしく変遷を遂げていったのであった。

 

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馬騰・韓遂の反乱

西涼の太守馬騰ばとう并州へいしゅう刺史しし(=州の統括者。)韓遂かんすいが、「朝廷の逆賊ぎゃくぞく誅滅ちゅうめつせん」と10万の兵を挙げた。

 

口では「漢のため、朝廷のため」と言っているが、その実この動乱に乗じ、長安を乗っ取った李傕らを掃討して天子をお救いし、自ら朝廷に君臨するためであった。

 

董卓の死は、こうした群雄割拠ぐんゆうかっきょの状態を加速させ、諸侯たちが覇権を争う戦国の世の幕開けを告げる号砲となったのである。

 

四将軍は参謀賈詡かくの献策をれ、城壁を堅固にし、堀を深くし、籠城ろうじょうして敵をくじく消極戦術を取った。

 

その理由は2つあった。

 

第一に、西涼の兵は意気盛んでいくさに強かったため、まずはその士気を減退させる必要があったからである。

 

第二に、董卓の死は旧暦4月の末頃であったが、間もなく訪れる雨季(=旧暦5月。)の長雨にどっぷり浸からせ、馬騰らの兵糧や軍備が腐食し、兵士らの間で疫病えきびょうが蔓延するのを見込んでのことであった。

 

あんじょう、馬騰・韓遂の両軍の陣では、疫病が流行り出した。

 

槍や弓箭きゅうせんはしけるか腐るかのどちらかだった。

 

また、剣やよろいび、命を懸ける戦場での使用に耐えうるものではなくなってしまった。

 

あせった馬騰と韓遂は短期決戦を目指して長安の城に襲い掛かったが、攻めども攻めども陥落かんらくする様子はなかった。

 

日に日に戦況は悪くなり、もはや戦どころではなくなった。

 

その時、李傕らの軍勢は一気に城門を開いて攻めてきたのであった。

 

馬騰・韓遂の軍営はことごと蹂躙じゅうりんされ、壊滅と言っていい状態だった。

 

ことに韓遂は樊稠の猛追を受け、その槍に何度も突かれそうになった。

 

我らは同郷であろう。

私の命と引き換えに、この兵たちだけは見逃してはくれぬか?

 

そう韓遂に何度も懇願された樊稠は、ついにくつわを取って返し、陣営に帰ったのであった。

 

馬騰らを退けた四将軍は大宴を開催した。

 

その最中、李傕は樊稠の背後に回るや、いきなり樊稠を真っ二つに斬り裂いてしまった。

 

樊稠は韓遂を追わずに陣営に引き上げたが、それを李傕の甥の李別りべつが密告したからであった。

 

李傕は、樊稠の死体の側で震える張済に言った。

 

きょういで済まなかったが、そなたにとがはない。

樊稠の軍をそのまま、そなたが引き継いでくれ。

 

こうして、四将軍の中でも李傕が、朝廷のまつりごとや軍事の面で主導的な立場をるようになっていったのであった。

 

挿入画像

西暦 出来事 年齢
劉備 孔明 曹操 孫策 袁紹 董卓 呂布
前202 劉邦が項羽を滅ぼす。漢王朝誕生。
前157 景帝が漢の皇帝に即位する。
168 霊帝が漢の皇帝に即位する。 7 13 14 30 7
181 何氏が霊帝の皇后となる。 20 26 6 27 43 20
184 黄巾の乱が起こるも、同年鎮圧。 23 3 29 9 30 46 23
189.5 霊帝が崩御し、少帝が即位する。 28 8 34 14 35 51 28
189.9 少帝が廃位され、献帝が即位する。 28 8 34 14 35 51 28
190.1 反董卓連合軍が結成される。 29 9 35 15 36 52 29
190.2 董卓、都を長安に遷す。 29 9 35 15 36 52 29
192 董卓、暗殺される。 31 11 37 17 38 54 31

 

以上のあらすじは、主に吉川英治よしかわえいじ『三国志』、陳舜臣ちんしゅんしん『秘本三国志』『小説十八史略』、横山光輝よこやまみつてる『三国志』、王扶林監督『三国志演義』、高希希監督『Three Kingdoms』などをベースにしています。そのため、羅貫中らかんちゅうの『三国志演義』や陳寿ちんじゅの『正史三国志』とは内容が異なり、少なからず脚色が含まれることがあります。あらかじめ、ご了承下さい。

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