【1日5分】あらすじ三国志29「袁紹、冀州を奪う」|大泉洋主演『新解釈・三國志』応援企画!

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三国志
大学で中国文学を学び、長年国語の教員を勤めてきた経験を活かして、分かりやすく、簡潔に、それでいて深イイ三国志のあらすじ紹介を行っていきたいと思います! 『三国志』に興味はあるけど小説を読んだりドラマを見たりする時間はない、でも簡単なあらすじだけではもの足りない・・・。 そんな方にはぴったりです!

 

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袁紹、冀州を奪う

董卓とうたく連合軍の重要な役割を果たしていた曹操そうそう孫堅そんけんが連合を脱退すると、その他の諸侯も続々と本国への帰途につきました。

 

渤海ぼっかい郡の太守である袁紹えんしょう洛陽らくよう(=現在の河南省西部。司隷(司州)。漢の都があった。記事下の地図参照。)を後にし、河内かだい郡に駐屯してその後の計画を練っていました。

 

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高希希監督『Three Kingdoms』の袁紹

 

取り立てて解決しなければならないのは、「立脚地」のことでした。

 

それも、出来る限り中原ちゅうげん(=黄河中下流域にある平原。中国の中心。)に近い拠点が必要でした。

 

曹操は兗州えんしゅう(=現在の山東さんとう省を中心とした地帯。)に赴き、着々と足場を固めています。

 

伝国璽でんこくじを手に入れた孫堅は、代々孫子の拠点である江東こうとう(=長江下流域。)に帰り、地の利を生かして富国強兵に努めています。

 

そこで、袁紹は家臣逢紀ほうきの献策をれ、十八鎮諸侯の一人であった韓馥かんふくが太守を務める冀州きしゅう(=現在の河北かほく省中南部。)の接収に乗り出すのでした。

 

方針が定まると、袁紹の行動力には目を見張るものがありました。

 

袁紹はまず北平ほくへい(=現在の北京市。)の太守公孫瓚こうそんさんに対して、「共闘して冀州を攻めよう」と打診します。

 

そして、冀州を勝ち取ったあかつきには、その領土は半分に山分けにしようと持ちかけたのです。

 

公孫瓚はこの申し出に応じ、冀州を攻撃するために南下する構えを見せます。

 

しかし、袁紹は同時に韓馥にも使者を送り、なんと「公孫瓚がそなたの領有する冀州を虎視こし眈々たんたんと狙っている」と言って韓馥を恐怖させると、自分が公孫瓚から冀州を守ろうと名乗りを挙げたのでした。

 

韓馥の臣下耿武こうぶは袁紹のたくらみに気づき、韓馥をいさめ(=目上の者の誤りを指摘して改善を促す。)ます。

 

しかし、袁紹は名門の出で、反董卓連合軍の盟主を務めた人物であったため、韓馥はこの申し出を信用し、両手もろてを挙げて賛成してしまうのでした。

 

袁紹が冀州に入る途上、耿武が突然袁紹に斬りかかりました。

 

よくも抜け抜けと冀州に入れたものよ。

二枚舌にまいじたろうしおって。

貴様の企みに気付く者が誰もいないと思っているのか。

覚悟せよ!

 

しかし、勇将顔良がんりょうの一刀のもとに、耿武は殺害されてしまうのでした。

 

袁紹は、まず手始めに政治顧問として内政に干渉し、自らの臣下である田豊でんぽう沮授そじゅ、逢紀を要職に就かせて国政を掌握します。

 

そして、韓馥の兵士たちを顔良と文醜ぶんしゅうらに組織させ、軍権も手に入れます。

 

いつの間にか、韓馥は名ばかりの太守になってしまいました。

 

韓馥は、「耿武のげんれるべきであった」と嘆きますが、時すでに遅し。

 

生命の危険を感じた韓馥は、陳留ちんりゅう郡の太守張邈ちょうぼうのもとに亡命してしまいました。

 

袁紹はこうして、自らの立脚地「冀州」を手に入れたのでした。

 

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文醜の勇猛

袁紹が冀州を手に入れたと聞くと、冀州攻略のために南下していた公孫瓚は弟の公孫越こうそんえつを袁紹のもとに遣わし、兼ねての密約通り、領土を折半せっぱんすることを求めました。

 

袁紹は公孫越に会うと、「よろしい、領土分割についての交渉をしたいので、公孫瓚殿自ら冀州にお越し願いたい」と言って密約を守る振りをしますが、その帰途、袁紹は兵士に命じて公孫越に矢を射掛けて殺害してしまったのでした。

 

公孫瓚はこれに激怒し、冀州の入口となる磐河ばんがまで南下して袁紹を攻める決意をするのでした。

 

しかし、これも袁紹の狙いでした。

 

この機に公孫瓚を倒し、代々公孫氏が勢力を持っていた河北の地をも接収しようというのが、袁紹の当初からの策謀だったのです。

 

公孫瓚は、袁紹の並み居る軍勢に向かって怒鳴りました。

 

袁紹、よく聞くのだ!

貴様は反董卓連合軍の盟主を務めながら、ともに戦った諸侯の韓馥には二枚舌を弄してその所領を乗っ取った。

これぞ、不義ふぎの極みである。

必ずや末代までの汚名となるだろう。

のみならず、密約を履行することなく、我が弟をあやめたこと、絶対に許さぬ。

我とやりを交えよ!

 

袁紹は腹心の者を従えて、ゆっくりと駒を進めて応答しました。

 

言わせておけば、公孫瓚!

不義とは聞き捨てならぬ。

韓馥は自らの不徳によって州の行政を乱し、この袁紹に国を譲ったのだ。

譲っていなければ、早晩諸侯のいずれかの侵略を許して冀州は蹂躙じゅうりんされていたことだろうよ。

それを、この袁紹が阻止したのである。

これ、仁義のせる業。

確かにそなたとは密約を結んだが、この冀州を手にするために、そなたは何の骨折りもしておらぬではないか。

なのに、どうして冀州を折半する必然性がこのわしにあろうか?

弟の死は、その無礼な要求に対する私からの返礼である。

 

まなじりが裂けんばかりにかっ開いた公孫瓚は、右手にげた槍を高々と掲げると、「者どもかかれ!」と号令を下しました。

 

全軍が冀州領内に雪崩なだれ込みます。

 

しかし、袁紹は落ち着いていました。

 

あの公孫瓚の首級を挙げる者は名乗れ。

 

袁紹は、背後を振り返ることもなく言いました。

 

すると、「私が参りましょう」と言って、一人の武士もののふがゆっくりと前駆ぜんくしました。

 

その者は名を文醜ぶんしゅうと言い、袁紹軍一の豪傑でした。

 

身の丈七尺(=約210cm)、顔はかに甲羅こうらのように赤黒く、槍を自在に振り回し、迫り来る雑兵をなぎ倒しながら公孫瓚に向かって行きます。

 

公孫瓚は文醜と数合槍を交えますが、もとより力の差は歴然でした。

 

公孫瓚は文醜の隙を見て反転すると、馬を駆って林の方に逃げて行きました。

 

公孫瓚は鎧や弓箭きゅうせんを投げ打って必死に逃亡しますが、やがて文醜は公孫瓚の前に立ちはだかり、「この恥知らずめ、その首もらい受ける!」と言って槍で一突きにしようとしました。

 

その時です。

 

カツ!と、文醜の槍を払いける者がいました。

 

さすがの文醜も、思わずのけぞるほどの力でした。

 

その者は文醜を鋭く睨みつけると、「私がお相手いたしましょう」と言って文醜に一騎討ちを挑むのでした。

 

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西暦 出来事 年齢
劉備 孔明 曹操 孫堅 袁紹 董卓 呂布
前202 劉邦が項羽を滅ぼす。漢王朝誕生。
前157 景帝が漢の皇帝に即位する。
168 霊帝が漢の皇帝に即位する。 7 13 13 14 30 7
181 何氏が霊帝の皇后となる。 20 26 26 27 43 20
184 黄巾の乱が起こるも、同年鎮圧。 23 3 29 29 30 46 23
189.5 霊帝が崩御し、少帝が即位する。 28 8 34 34 35 51 28
189.9 少帝が廃位され、献帝が即位する。 28 8 34 34 35 51 28
190.1 反董卓連合軍が結成される。 29 9 35 35 36 52 29
190.2 董卓、都を長安に遷す。 29 9 35 35 36 52 29

 

以上のあらすじは、主に吉川英治よしかわえいじ『三国志』、陳舜臣ちんしゅんしん『秘本三国志』『小説十八史略』、横山光輝よこやまみつてる『三国志』、王扶林監督『三国志演義』、高希希監督『Three Kingdoms』などをベースにしています。そのため、羅貫中らかんちゅうの『三国志演義』や陳寿ちんじゅの『正史三国志』とは内容が異なり、少なからず脚色が含まれることがあります。あらかじめ、ご了承下さい。

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