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黄巾の乱勃発
漢の第12代皇帝霊帝の時代になって、400年近く続いた漢王朝を揺るがす大事件が起こります。
中平元(184)年、道教の一派である太平道の教祖張角が反乱を起こしたのでした。
彼の信者は武装し、口々に
蒼天已に死す
黄天當に立つべし
歳は甲子に在りて
天下大吉
《通釈》
青い空は消え失せ
いまにも黄色い空が立ち昇る
甲子の年(=徳の高い人物に天命が下される年。)になって
天下は幸いに包まれる
と叫び、みな黄色い頭巾を身につけていたことから、黄巾賊と呼ばれるようになりました。
*甲子・・・中国の春秋戦国時代に発達した陰陽五行説では、「甲乙」などの十干と、「子丑」などの干支が60通りに組み合わされ、それぞれの年に割り当てて吉凶を占うが、「甲子」はその組み合わせの一つ。
「還暦」(=暦が還る。)と言う言葉はこの陰陽五行説に由来し、この60通りの組み合わせが一巡したこと(=60歳。)を祝うものである。
辛酉を「革命」、甲子を「革令」と呼び、いずれも世の中が革まって徳の高い人物に天意(天の命令)が示される年とされる。
前回の甲子は1984年で、次は2044年である。
黄巾賊の猛威
霊帝は十常侍と呼ばれる宦官(=去勢された男性官吏)の専横を許し、王朝は腐敗の一途を辿っていました。
賄賂や汚職が横行し、志ある役人は次々に排斥されていました。
のみならず天変地異が相次ぎ、夢も希望も持てないような末法思想が世の中を包んでいた時代でした。
そこに、張角は救世主として現れたのです。
彼は信者に符水(=呪いが施された水)を与えて病気を癒したり、懺悔によって病んだ心を浄化させるなど、宗教的な医療行為を通して信者の心身を治療し、求心力を獲得していきました。
そのため、黄巾賊に加わる者は爆発的に増えていったのです。
張角は自らを「大賢良師」と称し、自分の信者たちに対しては「太平を楽しめ」と逸楽を奨励していました。
これは、張角が信奉していた道教の一派である黄老道の、「君主は民を統治する際に、天道を超えるような過度な干渉を行うべきではない」という教えに基づくものであると考えられます。
結果として、黄巾賊は、青洲、幽州、徐州、冀州、荊州、揚州、兗州、豫州と、瞬く間に勢力を広げながら、殺戮と略奪とを繰り返していったのです。(記事下の地図参照)
鎮圧しても次から次に現れる黄巾賊に、漢の軍隊も手を焼く状態でした。
村々では、黄巾賊による被害だけでなく、黄巾賊と戦うために男子は次々に徴兵されたり、軍費が増大したことにより重い税が徴収されたり、また黄巾賊の仲間だと疑われたものが逮捕されるなど、悲劇的な状況となっていきました。
しかし、この乱に立ち向かう英雄が現れます。
その人物とは・・・(「あらすじ三国志3」に続きます。)

なぜ黄色?
もともと張角が結髪を黄色の布で包んでいたのを信者たちが真似したところから、黄色は黄巾党のイメージカラーとなりました。
中国において黄色は特別な色。
中国には伝説上の統治者である三皇五帝がいますが、その三皇の治世を引き継いだ「黄帝」は中国の領域を「武力」によって押し広げていきました。
漢より前の王朝である夏・殷・周・秦はこの黄帝が始祖とされており、つまり黄巾賊はこの黄帝を連想させる黄色をイメージカラーにすることによって、世の中を漢王朝以前の状態に回帰させるというスローガンを打ち出し、またそのための「武力」による革命に正当性を持たせたと考えられます。
張角は、黄帝と老子の教えが結びついた道教の一派「黄老道」を信奉していることや、黄帝が医学の祖と位置付けられ、自らも信者に対して医療行為を行ったことなどから考えても、彼が「黄帝」を意識して黄色を用いた可能性が高いと考えられます。
ユンケル黄帝液の商品名は「黄帝」に由来している。
加えて、中国の文明を切り開いたのは母なる黄河の恵みであり、中国とは切っても切り離せない色をイメージカラーにすることで、多くの人々を仲間に組み入れようとする効果も狙ったのではないでしょうか。
西暦 | 出来事 | 年齢 | ||||||
劉備 | 孔明 | 曹操 | 孫堅 | 袁紹 | 董卓 | 呂布 | ||
前202 | 劉邦が項羽を滅ぼす。漢王朝誕生。 | |||||||
168 | 霊帝が漢の皇帝に即位する。 | 7 | 13 | 13 | 14 | 30 | 7 | |
184 | 黄巾の乱が起こる。 | 23 | 3 | 29 | 29 | 30 | 46 | 23 |
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