人を動かす力①「社会のために」の意識を持て!
三度の飯より『三国志』(演義)が好きだ。
と言えば大袈裟だが、三国志に触れない日はない。
大学では中国文学を専攻していたが、きっかけは三国志だった。
私は、やはり劉備に心惹かれる。
劉備は、今から1800年以上前の人。
前漢の第9代皇帝景帝の子、中山靖王劉勝の末裔でありながら、父を早くに亡くして筵を売って糊口を凌いでいた。
15歳の頃に都洛陽で学問を修め、故郷の涿県(現在の河北省)に戻る最中、劉備は当時各地に跋扈していた黄巾賊に拉致される。
しかし、後に義弟となる張飛に命を救われ、そのお礼にと、劉備は劉家に伝わる名刀を「母を養うだけの身分の私には分不相応」と言って張飛に与えてしまった。
劉備は母のために買った小さな茶壺を携え、母の喜ぶ顔見たさに涿に急ぐ。
だが、母は劉備から道中の出来事を聞くと、茶壺を川に放り投げ、劉備に向かってこう叱責した。
「貧しい身分に落ちぶれる間に、あなたは自分の本分を忘れてしまったのですか?
あなたは漢の中山靖王劉勝の末裔、いずれはこの国のために立ち上がる人物にならなければならないのに、その誇りと使命を忘れて、劉家の刀を譲ってしまうとは何事ですか?
私は我が子の育て方を間違えました。」
ここには、国の大事を慮ることを忘れて、生活のために利己的な考えに終始している我が子を戒める気持ちが描かれている。
私たちが陥ってしまいがちな姿勢だ。
吉川英治『三国志(一)桃園の巻』
「わたしは、そんな教育を、お前にした覚えはない。揺籃に入れて、子守唄をうとうて聞かせた頃から――また、この母が膝に抱いて眠らせた頃から――おまえの耳へ母はご先祖のお心を血の中へおしえこんだつもりです。――時の来ぬうちはぜひもないが、時節が来たら、世のために、また、漢の正統を再興するために、剣をとって、草蘆から起たねばならぬぞと」 「……はい」 「阿備(=劉備のこと。名前の前に「阿」をつけることで親愛の情を示す)。――その剣を人手に渡して、そなたは、生涯、蓆を織っている気か。剣よりも茶を大事にお思いか。……そんな性根の子が求めてきた茶などを、歓んで飲む母とお思いか。……わたしは腹が立つ。わたしはそれが悲しい」 と、母は慟哭しながら、劉備の襟をつかまえて、嬰児を懲らすように折檻した。 (中略) 「ご打擲(=打ち据えること。)をうけて、幼少のご訓言が、骨身からよび起されて参りました。――大事な剣を失いましたことは、ご先祖へも、申しわけありませんが……ご安心下さいお母さん……玄徳(=劉備の字。名前とは別の呼び名。)の魂はまだ此身にございます。(中略)なんで(志を)忘れましょう。わたくしが忘れても景帝の玄孫であるこの血液が忘れるわけはありません。(中略)今のご打擲は、わたくしにとって、真の勇気をふるいたたせる神軍の鼓でございました。仏陀の杖でございました。――もしきょうのお怒りを見せて下さらなければ、玄徳は何を胸に考えていても、おっ母さんが世にあるうちはと、卑怯な土民をよそおっていたかも知れません。いいえそのうちについ年月を過して、ほんとの土民になって朽ちてしまったかもしれません。(中略)もう私も、肚がきまりました。――でなくても、今度の旅で、諸州の乱れやら、黄匪(=黄巾賊)の惨害やら、地上の民の苦しみを、眼の痛むほど見てきたのです。おっ母さん、玄徳が今の世に生れ出たのは、天上の諸帝から、何か使命をうけて世に出たような気がされます」 彼が、真実の心を吐くと彼の母は、天地に黙祷をささげて、いつまでも、両の腕の中に額をうめていた。 |
何度読んでも胸が詰まる場面だ。
後に劉備は、魏の曹操に幽閉されている漢の献帝の密命を受けて、漢の復興に奔走することになる。
まだ拠点となる地を持たなかった頃、間借りしていた州の州牧(=県知事のような身分)から領土を譲ると言われることも度々あったが、義にもとる(=人が踏み行うべき正しい道に背く)と言って断ること二度。
曹操の大軍に攻められながら、民を見捨てられないと言って民と逃避行を共にし、進軍が遅くなったせいで妻を失うこともあった。
臣下はこの仁義の君主にいつもヤキモキするのだが、でもだからこそ、義兄弟の関羽や張飛、軍師の諸葛孔明はこの男のために生涯を懸けて尽くすのである。
民のために、そして国家のために奔走する劉備の物語は我々の心を強く打つ。
いつの時代も「徳」が人を動かすのだ。
自分を犠牲にして、社会のために尽くす人間が歴史を動かすのだ。
何かの夢を持とうが、何らかの事業を起こそうが、この「他者を動かす力」の原則を念頭に置いて、様々な計画の立案に取り組むことが「偉大なる成功」への要件なのだ。
人を動かす力②「思いやり」の心を持て!
私が陸上部に在籍していた頃、夏合宿の時に、同じく長野県の車山で強化練習をしていた山梨学院大学陸上競技部
黒田という選手がいて、それが最後の箱根駅伝だった。
区間賞を狙える快走をしていたが、タスキ渡しの際に、黒田は綺麗にタスキを伸ばし、次の走者が受け取りやすいように、そして肩に掛けやすいように調節までして駆け込んで来た。
箱根駅伝は、どの区間も平均して20Km前後の道のりを走らなければならない。
それは、ハーフマラソンを走るのに等しい。
従って、大抵タスキ渡しの際にはくちゃくちゃになったタスキを片手で次の走者に渡し、倒れ込むというのが風物詩なのだが、この黒田は違っていた。
笑顔で、次の走者にエールを送りながら、受け取りやすい状態でタスキを繋いだのである。
この後、マネージャーが上田監督に話しかけた。
「黒田くんは、あんなに丁寧にタスキ渡しをしなかったら区間賞でしたね!」
黒田は1秒差で区間賞を逃していた。
自分の栄光よりも、相手の利益の方を優先したのである。
区間賞を取った選手の名前を、誰も覚えてはいない。
しかし、黒田のことは多くの人の記憶に焼き付けられることになった。
私が生徒にしているように、この美談はこれからも多くの人に語り継がれていくだろう。
大変な世の中がやってくる。
なりふり構ってはいられない、背に腹は変えられないと思うことがあるだろう。
でも、私たちは自分に言い聞かせよう。
どんなアクションを起こすにせよ、人の心を打つのは、人の心に残り続けるのは常に思いやりなのだと。
「自分だけは」の精神では、東日本大震災の時と同じように、この未曾有の国難は乗り越えられない。
社会性と思いやりの意識をもって、一致団結でコロナ禍に立ち向かい、来年は笑ってオリンピックイヤーを迎えましょう。
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