こどもの日に、母に捧ぐ

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「こどもの日」の趣旨

本日はこどもの日です。

日本国の法律では、こどもの日は戦後間もない1948年に制定され、「こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する」ことが、その趣旨となっています。

「母に感謝する」というのは、あまり知られていないことですよね。

 

一昨日の夜、昨年2月に亡くなった母が夢に出てきました。

私が最も尊敬している人です。

それは今までも、そしてこれからも変わらないでしょう。

 

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母の思い出

私は以前の記事で、「子どもは親の背中を見て育つものだから、親は常に子どもの手本となる行動を心掛けるべきだ」ということを書きました。

三者面談を数多くこなしてきたことによる結論です。

この意見には、賛否両論があったと思います。

いつも忙しく子育てに奔走ほんそうしているお母様方からすると、そんな背中を見せている余裕はないと憤激ふんげきした人もいたでしょう。

 

私が学校を休んだ日のことでした。

小学校3年生くらいのことだったと思います。

子どもは鈍感どんかんなのでしょうか、私は朝ご飯をいつも通りに平らげ(母の卵焼きが思い出されます。笑)、家を出る前に用を足そうとお手洗いに行った途端、目が回るような感覚に襲われて卒倒そっとうしました。

 

そのまますぐに病院に行き、インフルエンザの診断を受けて出席停止となりました。

母は仕事に行くわけにもいかず、家で私の看病をしてくれました。

今考えると、自分の部屋で寝ろよと思うのですが、母親っ子だった私は、居間のソファーで寝ていました。

1メートル先には母がいます。

母はテーブルの前に正座をしながら、テレビを観ていました。

隣でインフルエンザの人間が寝ているのに嫌な顔もせず、私を怖がらせまいとマスクすらせずに平然と座っているのです。

そんな母でした。

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小学生の頃のことなど、そのほとんどを忘れてしまっているのに、その時の光景は鮮明に思い出されます。

母が出してくれたポカリスエットの味までよみがえってきます。

家事も育児も仕事もこなし、PTA会長までやってのける人でした。

そんな母の背中を(厳密言えば母の横顔ですが。笑)、そんな母の姿を見せつけられて育ったことが、「子どもは親の背中を見て育つ」という持論の根底にあるのです。

 

これを読んで下さっているみなさまにも、お母様にまつわる様々な自慢が思い出されたのではないでしょうか。

自分の死の危険もかえりみずに出産を決意し、何か月も死と隣り合わせで臨月を迎え、昔であれば多くの女性が命を落とした壮絶な痛みの中で、子どもを産み落とすのですから、色々なご家庭の事情があるとは思いますが、この一点を取ってみても往々にして母ほど偉大なものはないでしょう。

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母の死

昨年、母は肺炎で亡くなりました。

私が病院に駆けつけると、母は言いました。

「お母さん、ごめんね」

このに及んで、まだ人に気をつかうことのできる人でした。

一度たりとも弱音を吐かず、そして悪態もつきませんでした。

そんな母が、入院して4、5日が経ち、徐々に衰弱して意識が混濁こんだくする中で、「お茶を飲むか」と聞いた時、息もえに言いました。

「私、お茶が好きなんです」

訴えるように。

懇願こんがんするように。

喉が渇いていたのでしょう。

自発的にお茶を求める力が残っていなかったのか、私たちの手をわずらわせたくなかったのか。

恐らくその両方なのでしょうが、弱々しく震えた声で私にお茶を求めた母の声を、私は死んでも忘れることはないでしょう。

 

昔、テレビ番組で、武田鉄矢さんが10年前(当時)に亡くなったお母様イクさんのことを問われて、次のように語っていました。

 

いやいや、全然ね、もう逝きまして10年ですが、遠ざかることはありません。

旅先に行きましてね、やっぱり物音がカタンとすると、

闇の中に母を探すことがありますね。

よく死んでしまったと言いますが、あの言葉は嘘ですね。

あれはやっぱり、死んで「いる」んですね。

「いる」んですね。

 

時々、発作的に母に会いたくて、母に謝罪したくて仕方がない時がありますが、今は1メートル●●●●●先に母の遺影とお骨があって、母と共同生活をしているような気分でいます。

詩人高村光太郎こうたろうの「レモン哀歌」ではありませんが、

 

写真の前に置いたみち(孫)が母に見せたくて作ったレゴブロックのかげに

お茶と、私の不慣れな料理を今日も置こう

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けいちゃん」は、私の家族の、母に対する愛称です。

 

経ちゃん、今すぐあなたに会いにそちらに行きたい。

その時が来るまでは、息子を立派に育てたいと思う。

経ちゃんがおれにそうしてくれたように。

ありがとう。そして、本当にごめんなさい。

 

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最後に

今日、偶然この記事を読んでくださっている方がいらっしゃるならば、どうかお母様に声を聞かせて差し上げてください。

「ありがとう」など伝えなくても、お母様はそんなことはお見通しです。

私は母が死ぬまでの2年間、連続して受験学年の担任だったこともあり、あまり実家に通えずじまいでした。

親というものは徐々に年老いていく、弱っていくものではありません。

それは、まさに高く放り投げたボールが急降下するように、一瞬にして歩けなくなったり、口が利けなくなったり、そして天に召されたりするものなのです。

これをご覧になっている方が、私と同じような後悔をしないことを、切に、切に願います。

 

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