何のために生まれてきたの?〜「進路が決まらない」を解決する方法

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何のために生まれてきたの?

「幸運ということは、チャンスに対してしっかりとした準備ができているということだ。」

J・フランク・ドービー(アメリカ・歴史作家)

 

自分は何のために生まれてきたのか。

自分は何をなすべき人間なのか。

 

そんな根源的なことで立ち止まることがよくある。

しかし、この問いに関する限り、答えがすぐに出たためしはない。

7年前、不思議な体験をしたことがある。

息子の出産に立ち会った日のこと、なんせ産気さんけづいたのが夕方で、生まれたのが明け方のことだったものだから、へそのを切った後、私はすぐに意識を失ってしまった。

その時は片道2時間通勤で、産気づいた日も4時半起きで、放課後に破水はすいの連絡を受けてすぐに自宅に帰り、落ち着くまもなく助産院へ直行、つまり丸一日活動していたことになる。

目が覚めた時、目の前には生まれたばかりの我が子が静かに寝ている。

はっと、頭の中にとある漢字が浮かび上がる。

お腹の中の子どもが男の子であると分かった時から、私は20以上の名前を考えてきた。

そして、この日までに5つほどまで候補を絞っていた。

でも、脳裏に浮かんできた漢字はそのどれにも該当しない、今まで全く考えもしなかった漢字の羅列だった。

そこには、私の尊敬する思想家の名言に含まれている漢字が、そして偉大なる為政者いせいしゃの名前に用いられている漢字があった。

その漢字が私の息子の名前になるのだが、私はその瞬間に、なぜ自分が国語の教員をして言葉を学んできたのか、その理由を一瞬にして了解したような気がした。

ああ、この子に名前を授けるために、私は今まで勉強をしてきたのだなと、その時になって初めてに落ちた気分だった。

その人の天分てんぶん(天から与えられた本分ほんぶん・性質)というものは、このようにして気がつくものなのだろう。

急に天から啓示けいじがあったり、自分で探して見つかったりするような性質のものではなく、何かしらの努力や活動を積み重ねた先にふと了解するものなのだ

*この後、「天分」という言葉が頻出するが、宗教的な意味では用いていない。あくまで、何らかの契機に自分のなすべきこと(本分)が脳裏にひらめくということのメタファー(隠喩いんゆ)です。

 

夏目漱石の小説に『夢十夜ゆめじゅうや』というのがある。

10話のオムニバス形式の短編集で、そのどれもが「こんな夢を見た」で始まる。

挿入画像

 

第一夜

 

病床で寝ている妻が「もう死にます」と言う。

血色もよく、到底死ぬようには見えなかったので、私は「本当に死ぬのかい?」と妻に尋ねた。

すると、妻はまた「でも、死ぬんですもの。仕方がないわ」と答える。

本当に死ぬのかなと考えていると、たしかに死ぬような気持ちになって来た。

妻は言う。

「私が死んだら、百年待っていて下さい。きっと逢いに来ますから」

そう言って、妻は死んでしまった。

 

私は妻の遺言通り、真珠貝しんじゅがいで穴を掘り、そこに妻を入れた。

星の欠片かけを墓標にして、私はその側にずっと座っていた。

来る日も、また来る日も、過ぎた日を指折り数えながら、私は妻に逢えるのを待っていた。

なかなか百年はやって来ない。

そのうち、「私は妻にだまされたのではなかろうか」と考えるようになった。

すると、妻を埋葬したところから、一つの芽が出てきて、みるみるうちに青いくきとなって私の胸の辺りまで伸びてきた。

そして、一輪の真っ白なユリが花開いた。

私はそのユリの花にそっと接吻せっぷんをした。

ユリから顔を離す拍子ひょうしに、ふいに遠い空を見上げてみると、暁の星がたった一つ、天空にまたたいていた。

「100年はもう来ていたんだな」と、私はこの時初めて気がついた。

 

この小説を読むたびに、天分とは、まさにこのようにして私たちの前に姿を現すのだといつも痛感する。

 

自分は何のために生まれてきたのか。

自分は何をなすべき人間なのか。

 

こうした根源的なことで立ち止まっている人は、だからそんなものはすぐには見当がつかないと認識するべきだ。

悩んでいるうちに、悩んでいること自体がその人の生活を支配して、げ句、色々なことが手につかなくなって成長するための大事な期間を棒に振ってしまう。

だから、いまは目の前に与えられた課題をコツコツとこなすのがよいだろう。

そうすれば、いつか私が経験したように、すっと天分を了解する時が来るだろう。

 

 夢十夜 (岩波現代文庫)

 

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「進路が決まらない」を解決する方法

にしても、天分を知るまでは何をどう頑張ればいいのか。

「自分が何をしたいのか分かりません」とは、進路選択を迫られた生徒がよく口にする言葉だ。

天分を待っていては受験に間に合わない。

だから、私は決まって次のように答える。

(これは、すでに社会に出た人にも援用可能な方法なので、ぜひ試してみるとよい。)

 

将来のことや親の言葉を考慮に入れず、ただ自分の好きなことを紙に書いてごらん。

そして、それらに共通する事柄を抽出ちゅうしゅつして、それが学べる学校・学部に進学するのがよい。

 

例えば、生徒が以下のように自分の興味を列記してきたとする。

 

イラストを描く

人にものを教える

哲学・思想を学ぶ

日本の文化を学ぶ

 

一見、共通性は見当たらないが、しかし点と点を線で結ぶ作業をするとこのように繋がる。

 

哲学・思想・日本の文化を学び、それをイラストで人に分かりやすく伝える

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あとは、前者の学びと後者の学びのどちらに重きを置くのかを検討し、学部を決定する。

哲学や文化、編集・出版に重きを置くのなら人文学部、イラストに重きを置くのなら芸術学部という具合にである。

こうしておけば、少なくとも興味のあることは学べるわけで、学んでいるうちに天分を悟ることもあるかもしれない。

社会人になっても天分が分からず、ただその日をやり過ごすように仕事をしているのであれば、まずは今の仕事をしっかりやることだ。

そうすれば技術が身に付くし、資金も貯まる

働いているうちに天分を悟ることもあるかもしれないし、悟らなくても貯蓄した資金と退職金を元手もとでに、上記の方法で導き出した興味のある事柄(方向性)でリスタートを図ることもできる

いずれにせよ、目の前のことがしっかりできない人間には、天分は悟れないし、リスタートを切るための土壌も築けないということだ。

だから、今日はもう一度自分に言い聞かすように、ドービーの箴言しんげんを唱えよう。

 

「幸運ということは、チャンスに対してしっかりとした準備ができているということだ。」

 

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