こどもの日「端午の節句」の由来~屈原の生涯と「こどもの日」の過ごし方

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この記事で分かること

☆こどもの日「端午の節句」の由来を、古代中国にまで遡って紹介します。

☆こどもの日「端午の節句」の起源となった英雄「屈原」の生涯に迫ります。

☆こどもの日「端午の節句」に、子どもに対して何を伝えるべきなのかを考察します。

 

こどもの日「端午の節句」が近づいてきました。こどもの日になれば、鎧兜よろいかぶとを飾って、こいのぼりを上げて・・・。しかし、そもそも「こどもの日」とは何のためにあるのでしょうか。民間のネット調査では、半数近くの子どもが「こどもの日」の存在●●を知らないことが明らかになっています。

 

4~12歳までの親子600組を対象にしたインターネット調査

(ANN NEWS(2019年5月3日)より引用)

Q,「こどもの日」を知っているか?(子ども対象)

・「あまり知らない」26%

・「全く知らない」 19.8%

合計45.8%の子どもが、「こどもの日」を認識していない

 

Q,「こどもの日」に何かしているか?(親対象)

・「していることはない」52.8%

 

Q,「こどもの日」に何もしない理由は?(親対象)

・「特別な日だと思わない」   40.1%

・「何をすればいいか分からない」30.3%

 

この調査結果からも分かる通り、子どもだけではなく、親もまたこどもの日「端午の節句」の存在意義について深く認識していないことが明らかになりました。そこで、本日は「こどもの日」の由来を、古代中国の英傑えいけつ屈原くつげんにまでさかのぼって徹底解説しようと思います。今回のお話を参考にしていただき、「こどもの日」の過ごし方の一例としてお役立ていただければと思います。

ちなみに、上記の調査では、「子どもの頃に親からしてほしかったことは?」(親対象)という質問もありました。その回答が、「こどもの日」に子どもに対してしてあげることのヒントになるかもしれません。記事の最後に、調査結果をお教えします。

 

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こどもの日「端午の節句」の起源となった英雄「屈原」の生涯

出世

時は紀元前343年、今から約2300年前の古代中国に、一人の英雄がの国に生を受けました。氏名は「屈平くっぺい」、字は「げん」。後世こうせいの人々からは「屈原くつげん」と呼ばれて慕われたこの英雄は、楚の君主と同じく姓は「」であり、つまり王族の血縁であったため、人一倍強い愛国心を持っていました

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誠実で博覧強記はくらんきょうき、文章の才にひいでていた屈原は楚の懐王かいおうの信任を獲得し、みるみるうちに出世し、日本で言えば天皇の補佐役に当たる侍従じじゅうに相当する左徒さととなります。そして、楚の名門の家柄である景氏けいし昭氏しょうし屈氏くっしの長となる三閭大夫さんりょたいふとなって位人臣くらいじんしんを極め、国政に強く関与するまでになりました。

 

超大国秦の台頭

古代中国において楚は強国の一つでしたが、屈原の頃は衰退の一途をたどっていました。なぜなら、楚の西に位置する超大国「しん」の圧迫を受けていたからです。秦は、戦国時代の大国であるかんちょうえんせいの国を外交や軍事力を行使して弱体化させ、いずれは天下統一を成し遂げようと画策かくさくしていました。屈原は左徒さとという立場にあり、王の命令書を作成したり、諸国の賓客ひんきゃくの接遇を行ったりする立場にあり、国内外の事情に精通していました。そのため、秦の恐ろしさを熟知していたので、いかに秦の野望を阻止し、楚の国に安寧あんねいをもたらすかを日夜考えていたのです。

 

動乱の予感

現在の北京ペキンに位置するえんの国では、日本の総理大臣に当たる宰相さいしょう蘇秦そしんが、秦の圧倒的な軍事力に対抗するために、韓・魏・趙・燕・斉・楚の6国が連合する合従がっしょう」策を主導しました。「従」は「縦」に同じで、「合従」とはつまり地理的に縦に諸国連合を組み、西の秦に対抗するという同盟でした。

しかし、秦の宰相であり、蘇秦の学友ライバルであった張儀ちょうぎは、連衡れんこう」策で蘇秦の計略に対抗しました。「衡」は「横」の意で、「連衡」とはつまり秦が地理的に一カ国ずつ横に同盟を組むということです。秦は張儀主導のもと、韓・魏・趙・燕・斉・楚それぞれの国と個別に同盟を組み、その後、秦の圧倒的国力を背景にした外交と謀略で、徐々に同盟国の力を削ぎ、滅亡に追い込もうとしたのです。

 

屈原の挫折

楚の国では、西の強国秦と同盟する連衡れんこう策を採用するか、東の大国せいを中心とした諸国連合を結ぶ合従がっしょう策を採用するかで、国論は二分されていました。先ほどもお話ししたように、屈原は秦の恐ろしさを痛感していました。連衡策には、諸国を弱体化させるための秦の野心が潜んでいることを察知していたのです。そのため、彼は親斉派の旗頭はたがしらとして斉に行き、楚斉二国同盟を結びました。しかし、屈原が楚に戻る前に、秦は宰相の張儀ちょうぎを直接楚に送り込み、秦の領土を楚に割譲かつじょうすることを条件に連衡(同盟)を成立させ、同時に斉・楚の同盟を破棄させてしまったのです。

秦は外交交渉で成約した条約を反故ほご(=取り消し、破る)にするのを常套じょうとう手段としていました。結果として、秦は楚に領土を与えようとはせず、怒った懐王は大軍を出して秦に侵入しましたが返りちにい、大敗をきっします。こうした情勢の中で、優柔不断な懐王は政策を二転三転し、斉と結ぶよう剛直に諫言かんげん(=忠告)する屈原を次第にうとんじるようになりました。

 

屈原の失脚しっきゃく

紀元前299年、秦は和議の会盟を開く名目で懐王を秦の領内に誘い込み、屈原のいさめ(=忠告)も聞かずにおもむいた懐王は秦にらわれの身となります。王不在となった楚は懐王の子である頃襄けいじょう王を即位させ、その弟の子蘭しらん令尹れいいん(=宰相さいしょう)に任命しました。こうして、懐王は秦に抑留よくりゅうされたまま、四年後に崩御ほうぎょしてしまいました。屈原はこの秦の仕打ちにいきどおり、再度斉と同盟を組むよう進言しますが、親秦派の子蘭は上官大夫たいふを通じて頃襄王に屈原の讒言ざんげん(=告げ口)をさせ、怒った頃襄王は屈原を追放してしまったのです。

 

屈原の死

屈原は楚の都えい出奔しゅっぽんし、楚国の将来を最後までうれえながら、現在の武漢ぶかんの地、漢口かんこう武昌ぶしょうを経て長江を渡り、洞庭湖どうていこに入って湘江しょうこう沅江げんこうの間を放浪し、その無念の思いを数多くの詩編に託します。紀元前278年、秦の将軍白起はくきが大軍を率いて楚に攻め入り、郢を陥落かんらくさせました。屈原は荒廃した祖国のありさまを嘆き悲しみ、絶望してついに汨羅べきらの淵に身を投げたのです。この時の様子は、「漁父ぎょほの辞」という話によって語り継がれています。

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「漁夫の辞」『楚辞』

ある日年老いた漁師が、讒言ざんげんによって追放された屈原の姿を深い淵の辺りで見かけます。屈原はげっそりとやつれ果て、三閭大夫さんりょたいふであったころの面影おもかげはありません。

 

「世の中のすべてが汚れ乱れているが、私だけが清らかなままでいる。

多くの人がみな道理を見失っている中で、私だけが正気でいる。」

 

屈原は韻律いんりつを整えて心情を吐露とろします。

心を痛めた漁父もまたリズムを合わせて応じます。

 

「世の人がみな汚れ乱れているならば、あなたもにごればよいではないですか。

多くの人がみな酔っているなら、あなたもどっぷり酔いしれればよいではありませんか。

なぜそうまでして、自分を追い詰めてしまうのですか。」

 

屈原はため息をついて、こう言い残して去っていくのです。

 

「体を洗った者は、必ず衣服のちりを払ってから身に付けるものだ。

たとえ川魚かわざかな餌食えじきになったとしても、この高潔こうけつな私が、どうして世俗の汚れにまみれることが出来ようか。」

 

「義を見てせざるは勇なきなり」(=正しいことを知っていて、それを行わないのは勇気がないからだ(『論語』))という言葉がありますが、屈原は最後まで国家や国民のために正しいことを貫き通した、真心を持った男だったのです。

 

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こどもの日「端午の節句」に、子どもに対して何を伝えるべきなのか

このように、祖国の存亡に対して心血しんけつを注ぎ、死を恐れずに王に対して諫言かんげんを繰り返し、最後まで愛国を貫いた屈原を、人々は深く敬愛しました。その証拠に、屈原が汨羅べきらの淵に身を投げると、人々は魚に亡骸なきがらを食われまいとして米を笹の葉にくるんで投げたと言います。これが「ちまき」の起源です。また、屈原を救出しようと人々が川に漕ぎ出し、その光景はさながら渡航を競争するかのようであったと言い、その後屈原の死を悼んで川船のレースが行われるようになりました。これがドラゴンボート(龍船りゅうせん)の起源です。

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三国時代には、屈原は神格化し、国を思う忠義の士として彼の命日である五月最初の「うま」の日に、彼の死をいたむ祭りが行われるようになりました。人々は、自分の子どもたちも屈原のように誠実で、才能に恵まれた人物になってほしいとがんを立てるようになりました。それがこどもの日「端午の節句」の起こりなのです。

魏志倭人伝ぎしわじんでん』によれば、三国時代のの国と邪馬台国やまたいこく卑弥呼ひみこは外交交渉を行っており、これ以降に「端午の節句」も日本に輸入されたのではないかと考えられています。

また、日本では、安倍晋三首相の先祖とされる安倍晴明あべのせいめいでおなじみの陰陽道おんみょうどうが盛んで、その陰陽道では、奇数は「陽」の数字とされ、縁起が良いと考えられてきました。そのため、3月3日や7月7日など、奇数が連続する日には「節句」が催されるようになりました。こどもは国家の宝、親の宝です。そのため、子どものすこやかな成長を祝う日として、年に数度しか訪れない、縁起の極めて良い陽の数字の重なる貴重な日である5月5日に、「端午の節句」は固定されるようになったのです

 

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まとめ

☆屈原のように誠実で、才能に恵まれた人物になってほしいと、屈原の命日である五月最初の午の日に願を立てるようになったのが、こどもの日「端午の節句」の起こりである。

☆屈原のように真心を尽くすことの大事さを子どもに伝えるのが、こどもの日の本来の趣旨である。例えば、諦めずに夢を持ち続けることの大事さなど、それぞれの子どもに合わせて伝えることが大事である。

☆陰陽道では、奇数が重なる日はめでたいとされているので、5月5日は子どもの成長を祈願するには極めて重要な日である。

 

ちなみに、冒頭で紹介した民間の調査「子どもの頃に親からしてほしかったことは?」(親対象)の結果は以下の通りです。

 

4~12歳までの親子600組を対象にしたインターネット調査

(ANN NEWS(2019年5月3日)より引用)

Q,「子どもの頃に親からしてほしかったことは?」(親対象)

・「もっとほめてほしかった」      46.7%

・「もっと遊びに連れて行ってほしかった」21.2%

 

「こどもの日」には、真心を尽くすことの大事さを伝える一方で、子どもを褒め、そして家でたくさん遊んでいただければと思います。

 

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